名を棄てる神

連休も終わり、世の中の常の動きが戻ってきた。私の生活にはあまり関係ないが、それでも落ち着きや静けさが戻ってきた。箱根の大湧谷あたりでは火山活動の活発化のために立ち入り禁止になって、ニュースでは閑散とした名所を映している。

 

聖書を読み込んでいる不思議な人々についての本を、だいたい読み終えた。

 

筆者の教授は終戦後からほぼ30年のあいだ、それらの人々から、折りに触れ、「神の言葉」を書いた手紙を受け取っている。ただ、「神の言葉」ではあるのだが、この”教団”の特徴として、それらを「自分の言葉」で語り直していることだ。

 

おおざっぱに言えば、この「神」は私たちに馴染みある旧約の神と語り口が似ている。

さらに、この神は、新約の神に似て、弱いもの、小さなもの、しいたげられたものにこころを寄せる。

 

神は「神の国」を打ち立てるべく日本を選んだが、それは日本がとくに他にまさって優れているから、というわけではない。アメリカよ、ソ連よ、中国よ、と呼びかけて、正義の名において小さな国をさばき懲らしめようとするすべての力ある国々は、自らが神になりかわろうとして、いずれはぶざまに倒れる、と言っている。

 

日本が”選ばれた”とするなら、おそらくその「小ささ」によってであろうし、他の大きな国々(多分欧米のキリスト教国のことだと思うが)のように、「古い神」に固執していないことが、「選び」のひとつの理由であるようだ。

 

第二イザヤ風の預言のところでは、マッカーサーにもかなり触れている。神は大日本帝国を解体し、その仕事を部分的にマッカーサーに代行させた。神は、「私の子ら」だけにその存在を知らせ、マッカーサー自身には教えない。

 

やがてマッカーサーは神の力を自分の力と錯覚して、義の道を踏み外し、やがて海の向こうへしりぞけられる。英雄がもはや神の仕事の役には立たないことをあきらかにする、という預言。今では既知のことだが、この預言が語られたのは、マッカーサーの失脚より前ではないだろうか。日付がないので推測だが。

 

このように、この「神」は「英雄」を斥ける。神が真の日本人として選んだひとは、壇上から大衆に呼びかけたり号令を掛けたりしないし、誰も彼のことを優れた者だとは思わない。彼は神の言葉を自分の言葉で話すが、誰も耳を傾けず、挫折するが、そのたびに、そのこころは柔らかくなる…。

 

全体の半分以上は、日本とアメリカの関係、あるいは外からの影響とその離脱と言っても過言ではないかもしれない。

 

教授が南方の戦地で不思議な出会いをした、ちょっとやくざっぽい男性。彼はいずれ日本が「神の国」になるという話をしながら、なんとも言えない、恍惚の表情をした。とても美しい何かを彼はたしかに見ていたようだ。

 

そもそも、この”おっさん”の口から「在りて在るもの」という言葉が出たことに私はびっくりしたのだが。

 

この神は、もはや自分は手あかにまみれた「神」という言葉さえ捨て去るだろう、と言っている。