臍の緒

昨晩は豪雨だったらしく、朝起きたら、ベランダ前の原っぱにある溝いっぱいに水が溜っていた。朝方はぐっすり寝ていたようで、雨音に気づかなかった。

 

今日の東京は19度まで気温が上がり4月上旬の陽気ということだったが、朝方の雨の影響か、地面はひんやりしている。どうも、最近の気象予報は、天気図だけ分析しているみたいな感じで、体感する気温や風の温度とは差があるようだ。

 

今月末にはもう桜が咲というのも今の寒さからは信じられないが、お彼岸を過ぎると一気に暖かくなるのは例年のことだ。コートで着膨れた季節が早く去ってくれないかな…と。

 

さて、長らく引きずっていた駿河台の寺院との、臍の尾みたいなものが、ようやく切れるときがきたようだ。

 

自分がやはり第一義的に、なんといってもキリスト教徒であるというのは譲れないところなのだが、とはいえ、神秘学とかいろんな紆余曲折を経ており、普通のクリスチャンとは必ずしも相容れないところがあるのは昔から感じていた。ただし、何らかの「共同体」にやはり属すべきではないか、そうでないと恣意的な解釈に陥る危険性があるというのが、最近の、また、長年の葛藤だった。

 

その意味ではやはり正教会が還るべきベストなところなのだが、現在の日本の教会が変質していることもあり、また、鹿島田氏を教会幹部が認めているような価値観では、早晩、うまくいかないことは火を見るよりもあきらかである。

 

ただ、自分にとって、正教会の信仰は核になるものであり、また、その美術や祈祷や音楽には限りない愛着を抱いていることが、離れがたい理由でもあったのだが、それならば、それは個人的レヴェルで、また、教会から距離を置いたかたちで、親しむことは十分可能だとの結論になった。

 

これは、旧ソ連において、そこにとどまったパステルナークやサハロフと、亡命したソルジェニーツィンの構図とも似ていて、批判はしながらも、あくまでもそこにとどまるという選択肢もありうるのだけど、私としては、もっと別のかたちがあると感じるので、「亡命」を選ぶことにした。

 

信徒のなかには、本当に正教の精神を生きているひとが、札幌の某翁のように、いたりもするのだけれど。

 

それに、今までの正教会は眠ったような、昔ながらのひなびたところがよかったのだが、これからは大いに変わってくるような予感がしたりもする。その昔、T神父が本を書いて活躍するようなただ一人の神父だったわけだが、今は若手のK師などがおり、K師は回宗者らしい熱心さが特徴であり、きっと将来強力なリーダーシップをとるような予感がする。それがよい結果になればよいのだが…。

 

ひそかに名付けて、駿河台のサヴォナローラ

 

しかし、神学論争も知識も複雑な祈祷も重要ではあるが、私はもっと「霊」、つまり聖霊だが、に導かれているのが、教会であると感じる。

 

偶然かもしれないが、私が復活祭でなく、聖神降臨祭に受洗したのも、何らかの意味があるだろうと、自分のこれまでの人生を振り返ってみて思う。だから、駿河台へは行かなくても、自分は「正教徒」であることには変わりがない。

 

こちらへ来て、1年になろうとしている。家の管理事務所から契約更新の通知が来たり、とか、いろいろ仕切り直しも必要な春である。半分年金生活者なのだけど、春からはできれば近所で、しかもあまり頭脳労働ではないアルバイトなどをしてみようかな…と思っている。

 

今日は、以前住んでいた線が遅延やら何やらで大混雑で、乗車率300%の通勤電車だったのだという。そもそもあそこは評判がよい住宅地だが、人口大急増地帯なのであった。

今の沿線はまだ緑も多く、何より、あまり遅延などのトラブルがないのが有り難い。それほど混んでいないからだろうし、いざとなったら、600円のチケットを買えば、座席指定の特急があるのである。秩父や川越という観光地を抱えている線ならではの、メリットである。