日本的霊性

鈴木大拙の本と同じ題になってしまった。

 

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時間ばかりが虚しく掌からすべり落ちていく。そして毎晩の悪夢。

 

こんな夢は自分の不安の投影だと思おうとするけれど、時には、危険を知らせてくれたのでむげに無視することもできない。

 

現実と虚構がないまぜになっている混乱のなかで、やっぱり「核」が必要だ。

 

そうでないと、自分がますます雑多な現実や怪しい虚構のなかに、解体していって、滑り落ちてしまう。軸を失っていることに気がついた。

 

N堂へは行きたくないので、ふと思い出して、今日は杉並のY教会へ行ってみた。こちらのほうが近いということもある。30年ぐらい前に一度だけ来たことがあった。

 

教会政治に巻き込まれてはいけないという気持ちがある。けれど、だからと言ってすべてを忌避することがよいのかどうか。今の日本のキリスト教のなかでは、やはり正教会に古く堅牢な生活に密着した信仰を堅持しつつ、地道に暮らしている篤信のひとたちがいることを感じた。

 

神道界も数年接触したけれど、民族宗教の枠を出られないし、知的な探求はあまり好まれない。平田篤胤なんかもK大学では論文にはご法度の世界。それなら東大へ行ってください、と言われるらしい。

 

仏教は習俗と密接なので、これも「核」にはなりえない。

 

日本人の性質に合って、霊性として、おそらくは最もよいものが日本正教の伝統のなかには、代々受け継がれていると感じた。ギリシャやロシアが本家という考え方から、そろそろ離れていいのかもしれない。

 

本家を換骨奪胎して、よいものにつくりかえるのは日本人の得意なところだからだ。

 

それと、たぶん、正教のなかに強くあるユダヤ的なものが、日本人と引き合っているのかもしれない。現行の神道では必ずしもなくて、神道のなかに垣間みられるようなシンプルな、雄勁さ、みたいな、ユダヤ教にも通じるなにか。

 

神道界では、実際大学で、熊野信仰のなかにキリストに似た、犠牲になるカミという概念があるという話を教官がしたので、もうちょっと聞きたいと言ったら、「神職になる人を迷わせるからここまで」という言い方だった。革新する力や自浄作用がない。

 

どこにも完璧なものはない。けれど、スピリチュアリティの点で、隠れた宝蔵みたいなものが日本の正教会にはたしかにある。異国の宗教なのに、日本人の特性が色濃く出ている不思議。

 

私はロシア人がわらわらやってきて、習俗の延長で熱狂的に祈っているN堂にいささかうんざりするのである。

 

それにしても、普通の信徒とは自分の考え方はかけ離れ過ぎているので、その点は伏せつつ、時折、参祷したいと思っている。

 

驚いたことに、Y手の信徒はN堂に行ったことがないという人も結構いる。しかも、埼玉や横浜まで信徒が散らばっていて、成立の過程も関係するのだろうけれど、古い雰囲気だ。信徒皆が聖歌隊というのもよいし(エリート意識がない)、結局、単音聖歌のほうが家でもひとりで歌えるので、私祈祷にもつながる。指揮者が新米で指揮になっていないのもご愛嬌であった。

 

シリアのイサアクの大きな聖画が聖堂内にあった。インスクリプションがキリル文字なので、ロシアから渡来したものか。厳密にはイコンではなく、肖像のような筆致だが、深い精神性を感じさせる絵だった。こういうものは珍しいと思う。

 

礼拝の原点というのを、いろいろ感じた日曜日。半信半疑だが、領聖したためか、かなり元気になった。行くまではかなり疲労困憊だったのだが。