意識とできごと

不思議なことだけれど、最近、自分の意識が現実そのものを作り出したり、改変しているのでは、と思うことがときどきある。

 

そんなことはありえないことだと思うが、昨日、超常現象の量子力学的考察のテレビ番組を見ていたら、二人の人間のあいだでテレパシーが通じるとき、量子レベルでの流れができているというのではないかということが仮説ではあるが、有力視されているようで、上のことと繋がるところがある。

 

私はとくに震災以降、いろんな悪夢をよく見るようになったのだけれど、そして、それらは、自分のなかの清算されていないだろうさまざまの負の感情(恐怖や疑念、怒りなど)が現実のいろんなピースを組み合わせて、あたかも現実であるように夢として見られるのだが、それらは本来、消えてなくなるべきものなのであろう。

 

ところが、それを気にしてしまうと、それが時として、本当に起こってしまう(実際、まだ起こったことはないが)ので、そういう意味でも、「意識のありよう」をしっかりコントロールしておくことが大変重要であることに、最近気づいた。でないと、負のできごと・感情の再生産に逆になってしまう。

 

ただし、清算されない感情や疑念が、ストーリー化するだけでなく、「ありうる」可能性を示唆している「警告夢」のようなものも夢にはあるので、区別しておく必要はあるだろうと思う。

 

おおむね、その夢の内容と、実際の人物なり、人間関係のリアルな実態(といっても、人間のことだからあくまでも主観的な客観であるが)をつけあわせてみると、その夢が実体のないものなのか、それとも何らかの示唆なのかは、ある程度見当がつく。あくまでも、「現実」に知り得たこと、をベースにして分析をしなければならない。

 

が、実際、何かを気にしていると、そのことに関連したものばかり目につくことがあったり、映画を見ても、看板も見ても、関連したことが多いと思うのは、意識の物質界への何らかの働きかけなのかな、と思ったりする。

 

ある時、どこへ出かけても盲人に会うことが多かったときがあったのだが、その頃は、目を悪くしていて、その心配が、そうした現実を目の前に引き寄せていたのではないかと思う。なぜか最近はすっかりそれがなくなったのだが。

 

たとえば、放射能問題にしてもそうだが、気にしている人で具合が悪いひとがひとかたならずいて、それは狙い撃ちにされているのではという意見もあるが、そんな非効率なことがいちいちされるわけもなく、やはり「意識」が「放射能の恐怖」に向き過ぎているために、何らかの「具現化」を起こしているのかな…と、漠然と考えてみたり。(もちろん、恐怖心からのストレスのあるだろう。)

 

だったら、ある人間というものも、その人を見る観方によって、実体がよくも悪くもなるということもありうるのではないか。

 

ただ、それだけ物事が相対化されてしまうと、結局は、「自分がどう感じるか」ということしか、判断基準というのはないのではないかと思う。また、その意味で言えば、好意的に眺めれば対象も安全なものとなり、疑念を抱けば、対象はそれにふさわしく、危険なものとなるのかもしれない。だから、できるだけ人間に対しては良い見方をするべきなのだろうけれど、一方でまた、それでは警戒を欠いてしまい、危険にさらされることにもなる。信頼と警戒の塩梅が重要なのだろう。

 

これらのことを踏まえた上で、意識には現実を変える力があるのであれば、できるだけポジティブな態度で過ごすことが大事なのだろう。また、「正しいひとの祈りには力がある」ということも、意識が現実を変えていくということの、別の表現だと思う。