自転車と少女

今日は快晴、少し暖かくなった。

 

昨日は、初めてサウジアラビアの映画を見た。評判になっていた「少女は自転車にのって」というサウジの女性監督の作品。

 

女性監督らしい細やかな心配りなどという言い方はしたくないが、女は自転車に乗ってはいけないというサウジの社会慣行を果敢に破ろうとする、まだ中学生ぐらいの少女の話なのだが、興味深いのは、この少女、ワジダの学校や家庭生活を淡々と描きながら、サウジの、私たちから見ると、異様な社会の欺瞞や病弊が、手にとるようにわかって驚く。

 

ワジダは母親と二人暮らしで、父親というのが週に一度ぐらい訪ねてくる。というのも、ワジダの母親には男の子ができないので、夫の母(義母)は第二夫人を探しているのであった。

 

しかも、驚いたのは一夫多妻の場合、すべての妻の面倒を夫が見ているのかと思ったらそうではなく、ワジダの母親は生活の苦労まで負っており、夫が嫌がるというので、顔を見せなければならない病院勤務のよい話があっても、二の足を踏んでいたりする。

 

女性は運転も禁止なので、不法滞在者の運転手を雇い、しかも、金持ちでもないので、乗り合い自動車形式で、遠い職場へ通う毎日。

 

ワジダの通う女学校の校長は、映画女優のようなはっとするほどの美人なのだが、すこぶる宗教的戒律に厳しく、生徒を厳格にしつけている(工事の男が女生徒たちの「声」を漏れ聞くことがあってもならない、とか)。反面、どうも、こっそり恋人と自宅で会っているという噂もある(宗教警察に踏み込まれた手前、泥棒ということになっている)。

 

そんな環境のなかで、賢い少女は自転車を買いたくて、ミサンガを編んで売ったり、ランデブーの手紙を取り持ったりしながら小銭を稼ぐが、なかなかお金は貯まらない。するとタイミングよく、学校では賞金800レアルの、コーランの暗唱大会が催されることになった。

 

なにかと反抗的だったワジダだったが、学校の「宗教クラブ」(このコーラン勉強会の様子もとても面白い)に入り、最初は下手だったのだが、熱心にコーランの知識や暗唱を学んでいく。大会ではその精進が実って見事優勝するのだが…。

 

母親は父親が第二夫人を迎えるというので、(多分離婚はしないのだろうが)、夫の好みだった長い髪を切り、新しい仕事に就くことにした。新しい生活が始まる予感で、映画は終わる。

 

両親がお金のことで争う声を聞いたり、家系図には女の子の名前は載らないのよ、と母親に言われたり。一族の男たちが家で宴会をすれば、料理を出すだけで、後は、宴会がひけてから残り物を食べる母と娘。社会の矛盾、複雑さを肌で感じつつも、明るさと、自分らしさを失わない少女がとても魅力的だった。

 

しかし、何より感心したのは、「こんな女性差別社会は許せん」といった糾弾姿勢ではまったくなく、現実生活をただ描写していくだけで、強烈な批判になっている見事さである。こういう描き方もあるのだなあと感心した。

 

とくに宗教教育のある種の異常さ(聖典には直接触らず、ティシュで捧げ持つ)、見た目はまったく西欧風の美人校長が、礼拝の際はアバーヤをかぶって、女性徒たちに、「皆さん、隣のひとにぴったりくっついて。悪魔が入らないように」などと言う、中世さながらの奇妙な光景が、面白いといってはなんだが、興味深かった。

 

 

サウジ社会の矛盾と倒錯、けれども、若い世代によって確実に社会は変わっていくだろうという予感が、ワジダがラストシーンで走らす、自転車の巻き起こす風として感じられた。

 

私はもちろんサウジ育ちではないのだが、子供の時に、「危ない」という理由で、自転車に乗ることを禁止されていた、珍しい存在。今は乗れるけれど、そんなこともあって、「自転車に乗りたがる少女」は格別の意味があったのである。