疲れのせいだろうか、右手にも左手にも、傷ばっかりつくっている。
本を整理しながら、堀辰雄夫人、多恵子さんの「山麓の四季」というのを手にとった。
こちらの古本屋で見つけてまとめ買いをした軽井沢関係の4冊のひとつなのだが、ゆっくり読むこともないまま、時間が経ってしまった。
堀氏亡き後の軽井沢での一人暮らし、訪ねて来る若い読者たちのことや、山荘のまわりの草花、ミッションスクール時代の友人の話など、読んでいるだけで、静かな時間が流れる。最近の本には見いだせない、やすらぎがある。
パラパラとどこから読んでも、著者と紅茶を飲みながら対話しているような、しっとりとした、でも、自分の生き方を芯に秘めているひとの、落ち着きがどのページにも感じられる。
シクラメンの花を友人に贈ったのに、「私がシクラメンのことを好きじゃないのを覚えておいてね」とひとこと言われたことが澱のように残り、楽しい思い出の数々に翳がさしてしまったこと。けれど、その後、堀夫人がイスラエルに行って、園芸種でない、野生のシクラメンを見て、これだったら、亡くなったその友人も好きになったのでは、と思い直す話など、興趣は尽きない。
葉鶏頭について書かれたものもとても良い。葉鶏頭は別名、老少年と呼ぶことも初めて知った。堀辰雄はこの「老少年」という別名を「いいね」と言っていたようだ。老いてもなお、鮮やかな色をしていることからついた名前であるとか。
堀夫人が「葉鶏頭」という随筆集を出したときに、その書の先生が、献本のお礼として、漢詩を書いてくださったのだそうだ。
人為愁年少老華本無愁老少年
これは、明の中期、蘇州の画家であり、書家である、詩人の唐寅(字伯虎)の詩の一部ということだ。
人は愁い多きが為に少年にして老い 花は愁い無きが為に老いて少年なり
年老いたると少年とすべて管せず しばらくもって詩酒と花前に酔わん
(年老少年都不管 且将詩酒酔花前)
「追分では見ることもない葉鶏頭だが、美しい葉が甦って来ると、さまざまな思いが去来する」と、堀夫人は結んでいる。
追分の「停車場」の小さな白い柵や、ホームの花壇を、私はふと懐かしく思い出す。
昔から、この田舎びた駅が好きで、いつも車窓から乗り出すように見ていた。新幹線ができてからも、ここは信濃鉄道の路線になったので、10年前ぐらいに行ったときも、昔ながらに、ツユクサやスベリヒユがあたりに咲く、草むした夏の駅だった。駅の傍に、「暮らしの手帖」分室という看板がかかっていて、こんなところにオフィスが…と驚いたものだった。
耳をすますと、草むらの虫の声すら聞こえそうな…。