ハンナとヒルデガルド

ファッション関係のブログを書こうとして立ち上げたこのブログだったが、反応がかんばしくなく、しばし、その方面は控えることにした。

 

先日書店で、最近亡くなったカトリック作家のエッセイを立ち読みしていて、読者は選ぶとはいうものの、それなりに知られたこの人が、晩年、自分が書いた原稿をどこの出版社も引き受けてくれず、深い失意の状態にあったことを知った。「この人にしてそうなのか…」と驚くとともに、もし本当に小説執筆の内的モチベーションが高ければ、「注文がない」と嘆くより前に、書き出しているのだろうと思ったりもした。

 

文化が低劣下したこの国では、私の書くものはもはや受け入れられないのだろうという、この作家の嘆きについて、日本の文化土壌の劣化は実際そうだが、読者に媚びるということではなくて、やはり、「受け手」がいなければ、どれだけ自分の思いや物語をぶつけても空しいというのも、一方で事実である。私もちょっと考え直した。

 

先週、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の映画「ハンナ・アーレント」を観た。トロッタ監督はずっと以前に、ファニー・アルダンなども出演した「三人姉妹」という作品を観ただけだが、「ハンナ…」は予想以上に素晴らしい作品であった。

 

 

アーレントと言えば、「イエルサレムのアイヒマン」「全体主義の起源」などの著作も有名だが、若き日に哲学者のハイデッガーの恋人であったことでも知られていている。そのエピソードももちろん描かれてはいるが、ハンナの周りの人間関係が私には興味深かった。

 

自身、独占領下のフランスのユダヤ強制収容所から脱走してアメリカに亡命した身でありながら、雑誌「ニューヨーカー」から特派されて、ニュールンベルク裁判を傍聴した際、ナチス被告人アイヒマンについて「悪の凡庸さ」という言葉を使ったこと、また、ユダヤ人の長老組織のなかに、ナチスへの協力者がいたこと、つまり、身内の恥に言及したため、古い仲間から、大学社会に至まで、激しく疎まれて孤立した。

 

そんな、彼女の周りには、しかし、夫のハインリヒ、若い友人ロッテ、作家のメアリ・マッカーシーのような、ごく数人だが、彼女を支える誠実なひとたちがいることが、この映画が私のこころの琴線に触れたところ。

 

なかでも、メアリ・マッカーシーの歯に衣きせぬキャラクターは強烈で、隠れマッカーシーファンというほどではないけれど、昔、「グループ」とか「カトリック少女の思い出」といった作品を読んだ私は、「へえ、こんな人だったんだ」と、サリンジャーをボロクソに批判したりした、その伝説を思い出したりした。

 

ハンナとメアリはともにズケズケものを言うタイプとして同類だが、常に相手に対する愛情と尊敬が視線や言葉にこめられており、感銘を受けた。二人でビリヤードをしながら、ハイデッガーが若いハンナにとってどういう存在であったのか、の二言、三言の短いやりとりのなかにも。

 

メアリ・マッカーシーを演じたジャネット・マクティアは履歴をみると、「キャリントン」で観ているはずだが、ちょっと記憶にない。ただ、この映画では演じた強烈なキャラクターと相俟って、強い印象を受けた。惚れ込んだと言ってよい。どうも私は、この手の強い女性キャラクターに弱いらしく、それも、このマクティアとか、エミリー・ワトソンとか英国女優が演じている場合に多いと、ひそかに感づいた。

 

(そういえば、メアリ・マッカーシーの息子と結婚したのが日本人女性で、たしか昔、その人が書いたメアリの回想録を読んだ記憶がある。)

 

この映画は、いわゆる「アイヒマン裁判」と、そのハンナの執筆に関しての時期にほぼ絞られているので、それ以前の亡命後の苦労には触れられていないが、ほとんど英語ができない哲学徒であるハンナは、ドイツ人向けの新聞に記事を書きながら、ずいぶん苦闘をしたようだ。

 

だから、この映画はドイツ語と英語の二カ国語で構成されていて、インナーサークルではドイツ人同士当然母国語で話しており、ハンナの時々おかしな表現を、親しい英語話者が直しているというパターンが見られたのも、面白かった。

 

ある意味、哲学的、歴史的、思想的に深い映画を、これほど端正に表現しているトロッタ監督の手腕にも脱帽するしかない。誇張が一切ない、正統な静けさに満ちている。しかし、思索的な映画がしばしば陥る「ひとりよがり」がないことが、私にはとても好ましかった。

 

俄然、トロッタファンとなった私は、長らく興味を抱いていた中世の女レオナルド・ダビンチと言われる修道女、ヒルデガルド・フォン・ビンゲンを、トロッタが映画にしていることを知り、今、DVDがアメリカから届くのを待っているところだ。

 

哲学、神学、鉱物学、植物学、動物学、医術、薬草学、音楽、あらゆることに通じていたたぐいまれな神秘家・幻視者ヒルデガルドを、ハンナを演じた、バルバラ・スコヴァとトロッタ監督がどのように表現しているのか、楽しみだ。ヒルデガルドの音楽はCDで以前、聞いたことがあるが、ゴレゴリアンなどとはちょっと違った、独特の雰囲気があって、面白いものであった。

 

そうそう、最後に。「ハンナ・アーレント」の撮影監督キャロリーヌ・シャンティエはフランス人女性。アルジェリアのフランス人修道士へのテロ事件を扱った「神々と男たち」の撮影を担当している。この映画に関しては、以前、映画批評の連載に書いたことがある。これも素晴らしい映画だった。そのシャンティエが来日して、対談をする上映会に行くはずだったのが、日取りが東日本大震災の数日後であったため、キャンセルになったのだった。その後、DVDで見ることしかできなかった。(そういえば、私は公開されてすぐに見たので、見ることができたが、マット・デイモン主演の「ヒアアフター」は震災後、上映中止になった)

 

あのころは本当にいろいろなことがあった。311の3日ほど前だったか、有楽町の映画館で、スペイン映画「アレキサンドリア」(原題は「AGORA」)を観ていたら、結構大きな地震(前震だったのかもしれない)があって、ちょうど、アレキサンドリアの古代図書館がキュリロスを始めとする、キリスト教徒の暴徒に破壊し尽くされるシーンあたりでの揺れだったので、本当に身震いしたものだった。この映画も、女性哲学者が稀有な存在であった時代に生きた、ヒュパティアの物語であったわけだ。(この映画評を書きたいと言ったら、編集部から拒否された事件もそういえばあった。キリスト教負の遺産に触れてはダメということなんだろう)

 

 

本当に最後にもうひとつ。実は、映画「ハンナ・アーレント」自身、ドイツ人が製作して世に問うことは、結構なチャレンジだったのではないかと私は思う。ナチスを「凡庸」と表現したアーレントの真意と世の反応を描くことは、今の世でさえも、結構センシティブなテーマであると思われる(そうであってはならないが)。

 

エンドクレジットを見ていて、ファイナンシャルサポートという文字がちらっと見えたが、その先が見えなかったので、これに誰が出資したのか、もう一度、チェックしたいと思っている。世の中には、まだまだ良心というものが存在することを確認した、素晴らしい映画だった。