ゴシック・ロリータ

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久々に、昔ご贔屓だった作家、ウラディーミル・ナボコフのことを思い出す。そういえば、ナボコフの小説には、主人公の女の子の名前をつけたものがいくつかある。「ロリータ」、「アーダ」、「マーシェンカ」とか。

 

「ロリータ」という名前は一般固有名詞を離れて、今では、”特殊な”色合いを帯びてしまっていて、誰もノヴェル「ロリータ」発刊後は、娘にその名前をつけたり、愛称で呼ぶことはなくなったのではないだろうか。(そもそも、小説のロリータの本名はドローレスである)

 

日本では、これに「ゴシック」を重ねた「ゴシック・ロリータ」が若い女性のあるタイプのファッションを指しており、それはナボコフの小説のなかのロリータが、当時のアメリカのローティーンの典型的な洋服を着ているのと全く対照的に、重苦しいレースや黒の多用、装飾過剰といった「ゴシック」性を帯びたスタイルである。

 

私のなかの「ロリータ」はナボコフの記述のように、いかにも絵に描いたようなアメリカの郊外住宅の芝生の上で、ローティーン独特のスラリとした足をショートパンツからのぞかせて、ホースで水まきをしているイメージだったりする。キラキラした水の飛沫が、彼女の頬の金色の産毛を光らせて飛散するといったような…。太陽が頭上高くにあり、陽光は燦々と…。だから、「ロー」(主人公は彼女をそう呼んでいる)の足は健康的に日焼けしているのだ。

 

一方で、日本の「ゴシック・ロリータ」たちは、隠花植物のように、街のそこここから時々現われる。原宿の交差点で信号を待っていたり、あるときは、北の地方都市の公園近くの街路を向こうからやってきたりもする。

 

「コスプレ」と言うと、特殊なニュアンスがあるけれど、考えてみると洋服を着るという行為は常に、大なり小なり、ある種の「コスプレ」ではないだろうか。

 

私も、ローラ・アシュレイなどをよく着るけれども、また、ある時は、エディー・バウアーやL.L. Beanを着たりもする。そんな時は気分はまったくアウトドア風で、アメリカンな磊落さを、こころにもまとっている。そうして、時には、まったく非実用的なサムシングを買ってしまうこともある。文字通り、「コスプレ」に近い。

 

そのひとつは、数年前、アメリカに行ったとき、ある街のエチオピア民芸品を扱う店で買った、銀色のロングドレスである。ノースリーブで、宮廷衣装とか舞台衣装のようなピッタリしたビスティエから、ひだをとったスカートが広がっていて、銀色のショールがセットになっている。ショールのひとつはドレスと同じ、フラットな銀糸に裾模様の入ったもの、もうひとつは、生成りの薄地コットン(シルク?)に、同じ銀糸の裾模様がついている。

 

これなどは実際全く着る機会がないのだけれど、あまりに気にいって、着てみるとサイズもピッタリだったので、当時習っていた楽器の発表会にでも着れるかしらと思い、そのままになっているものだ。(ずっとお蔵入りなので傷んでないかチェックしよう)。

 

「コスプレ」と半ば嘲笑的に言われるが、洋服でつかのまの夢を見る。そのことを誰が責められよう。魔術師のマントを着て杖をもって古書店に現われてもよし、ウェディングドレスの代わりに、白いワンピースを着て、野原に出かけ、髪に花冠を飾ってもよいではないか。

 

それは創造、クリエイションでもあり、生活のなかのささやかなスパイス。

 

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