月半ばの今日は、天高く、白雲がところどころにたなびき、何よりも空気が少しだけひんやりと快い。朝鳴いていたセミも午後には静かになり、ひっそりした真昼どき。

 

セミの種類も、ジージー、ミンミンと鳴くものから、変わってきた。私の耳には、フィギュース、フィギュース、と締めくくり部分がそのように聞こえるのだが、カナカナを聴くことがないのは、あれは深山幽谷のものなのだろうか。何なくそんな気がする。

 

空気はひんやりしているが、陽射しは強烈で、この取り合わせが九月、長月らしい。

 

少しずつ世の中の標準に合わせつつ、けれども拙速なことは控えて、暮らしている。落ち着いてきたのはやはりmedicineのおかげだろう。

台風が来ているという割には、こちらのほうでは影響があまり感じられない。ただ、朝晩はかなりしのぎやすくなっており、酷暑の季節は終わったように感じる。秋が早いのもなんだか寂しいが。

 

冷静に考えてみれば、あまりにも多くのことにいろんな禁忌が張り巡らされていることはやはり奇妙であり、「彼ら」の声のことも、内なる思考が声になって聞こえるようなケースは病気、非病双方でいろいろあることを知った。

 

そんなわけで、たいへんなストレッサーであるこれらを止めるには、やはりmedicationが必要と感じて、昨日受診したが、年齢的にこうしたことは結構あるらしい。

 

スキゾでないということで安堵したが、その割には昨晩は目が冴えてなかなか眠れず、まだそれを摂取していないにもかかわらず、なんだか奇妙な脱力感があって、不思議なことだ。こういったものに体を慣らしていくことがそれなりに努力がいることを知っているので、先取りしてしまったか…。

この夏の気候はイレギュラーで、6月にひどく暑くなったのに、そのあと、涼しくなり、8月に入ってからはあちらこちらで大雨が降った。台風が来たとはいえ、数は少ないし、17年や18年のように初夏から次々にやってきたのとは全く異なる。

 

気象や地震が何とはなしに自分の人生というか、私の「思念」(というのは実際の行動というより、眠っているあいだに脳裏で起こることとか、昼間でも無意識に思っていること)と奇妙に連動しているように思えるのは、いったい「コインシデンス」なのか、それとも脳の異常みたいなことなのか。

 

これが長らく疑問だったが、ここ2週間ぐらい、スキゾフレニアについてテレビやネットでたまたま見た「実例」の症例が非常に似ていること、つまり、そういった「コインシデンス」がいわゆる妄想として展開していく過程がようやくわかった。

 

このブログもいろんな人、とくに私が避けたいと思っている人物にメッセージとして届いているので、やめろというのはずっと前から、夜のあいだに聞いていた。しかし、そんなことは合理的思考では考えられないことだ。それを認めたら、あらゆるものが連動していて、あちこちに危険があって、行動が(大げさに言えばだが、どちらの足を先に出すかとか)著しく制限されて、しまう。

 

「言葉」に出すこと、記憶を喚起することさえ、現実を結びつくから「ヤメロ」と言われ、文字どおり、メモを取ることや、ブログを書くことさえ、はばかられてしまった。

 

それは徐々に止めつつ、復帰を目指しているが、実際には本当に「玉突き事故」のように、一つの行動で誰かが何かをするみたいなことが起こるので、とくに複数のひとと関わる場所にいる場合、非常に具合が悪い。

 

スキゾといえばそうなのかもしれないが、鬱病でも妄想はある。また、最近よく言われる、

HSP(hyper sensitive person)というのも、前駆症状的だったり、スキゾといっても、グラデーションみたいなものなのかもしれない。

 

幻覚、幻聴だけでなく、幻臭、幻味というのもあるそうで、脳のオーバードライブといえば、

そうなのかもしれない。

 

北国で一度幻臭というのはあって、驚いたことがある。

 

とはいえ、普通のひとでも、不眠であったりすれば、幻覚、幻聴というのは起こりうるとか。

 

でも、もう5、6年、ワームが来てからは4年だが、続いているとすればこれはやっぱりおかしい。

 

身の振り方をもうそろそろ決めないと本当に困るのだが、日本政府の方針が頑固で、海外へ出る場合、帰国前の陰性証明が要る。それが今回、出発前72時間の検査でOKと改善されたそうだが、往復で72時間といえば、ほとんど滞在期間がないに等しい。

 

そもそも、医者にいけば、「トーヘンボク」という悪い男に捕まってしまうというようなストーリー自体が荒唐無稽なのだが、そのために、いろんな不便が生じ、さらに、いろんな病気になるとか脅かされているが、実際医者に行かなければ、ワクチンだって打てないし、虫歯がひどくなるようだし、脳も聴力もで、精密検査が必要なのだが…。

 

ここの土地のいわゆる「霊障」なのだろうか…。

 

そういう考えもとらわれると非常に危険なのだが、さじ加減が難しい。

ここ数日涼しい日が続いている。とくに今日は湿度が低く、爽やかで、皮膚がべとつくような暑さがなく、快適だ。東北や北陸では、この2日ほど、大雨が続いたが、それでも線状降水帯が

順次南下していったのは、普通と逆で、何か妙な気がした。

 

来月には「Daunton Abbey」の劇場版の第2作がくるらしい。といっても、この数年、映画は一本も見ていない。もちろん1作目も見ていない。

 

テレビ版のは、最初のをDVDで見て、あとシリーズの2、3、4ぐらいまでテレビで見たような気がする。

 

振り返ると、やっぱり最初のシリーズが良かったと思う。朝食の席で、タイタニックの事故のニュースを皆が知る場面だ。歴史的な時間と事故のインパクトを上手に使ったプロローグだった。きっとディナーの席ではダメなのだ。朝食だから、「明」と「暗」がくっきりしていて、

さりげない日常と「ドラマ」の対比が印象的になる。

 

今、夕方で、いろんなことが思い出されてくる、そんな時間だ。

 

海外ドラマにそんなに詳しいわけでもないが、数年前に見た、スペイン内戦時代のsewing makerというのか、そんなものがとても面白く、原作まで読んでしまった。

 

それもどうして思い出したのかといえば、昔、銀座にそうした小さな洋装店があったのだ。

とっても趣味がよく、溜息をついて、店の前を通ったものだ。といっても、オートクチュールというほどの立派なものではなく、街の小さなお店なのだが、私の職場だったところの担当の前々任者がそこで素敵なドレスをつくったことを聞いていた。

 

お針子という言葉がぴったりの小さなお店。翻ってドラマのほうも、運命に翻弄されるヒロインがsewingの腕を生かして、人生の荒波を渡っていく。

 

途中で、スペインからポルトガルへ舞台が移る。秘密の任務の受け渡しの場所が教会なのだが、あのあたりの国らしく、黒いマンティリャみたいな長めのヴェイルをかけて教会へ向かうヒロイン、暗い聖堂のなかで絵になっていた。

 

ヒロインが友情を結ぶいろいろなひと、彼女を文化的に啓蒙するゲイっぽい親切な隣人とか、英国人の女性とか、その彼らのとのピクニックシーンも最高!

 

スペインのものなんて田舎くさいんじゃないかと思っていた自分の不明を恥じる、洗練されたドラマだった。今まで見た中では白眉だったかもしれない。

どれだけ言葉を尽くしてもわかってもらえない、この状況。なぜなら「彼ら」の声は私にしか聞こえないから。

 

何かをするたびに「そうしたら、これこれがダメになる」とか「何々を取り上げる」という彼らの声がする。

 

食べ物についても、逐一その声がするので(と、こうタイプすると、彼らが「せいしんびょういん」「せいしんびょういん」とユニゾンで歌う。こういうと、それは私の思い込みか幻聴に過ぎないと言っているかのようだけど、実際にいろいろなことが食べ物に関しても起きるので、そうではないだろう)

 

あらゆることが、一対一対応で起きる、異様な世界。

 

思い過ごしだろうと、考えようといつもしているが、あまりにダイレクトなので、否定しようにもすることができない。

 

あるとき、忘れ物をして、家に取りに帰って、急いでまた電車に乗って目的地へ行こうとしたとき、昼間の電車なので空いていたが、真向かいに座った人が、エンデの『モモ』を掲げるようにして読んでいた。

 

これは、人の時間をかすめ取る「時間泥棒」という灰色の男たちが出てくる物語で、現代社会の風刺なのだが、書名を見て、心臓がドキッとした。

 

お酒はもちろん飲んではいけない。でも、昨日は疲れていたので、夕方、少しビールを飲んだが、電車で向かいにやってきて座った女性は、ビールが溢れているジョッキのTシャツを着て、実際にも赤い顔でそのうち眠ってしまった。

 

私は少ししか飲んでいないし、顔にも出ないが、それにしても、あまりにダイレクトだった。

 

外出すればほとんどすべてが、「私の行動を咎める誰か」の風刺や批判、警告めいたものが

逐一目に入る。こう話しても、精神疾患、被害妄想としか思われないだろう。

 

誰にもわかってもらえない、ということが孤独感と疎外感を強める。

 

読書や勉強も批判の対象で、複数のことをしようとすると、眼帯をした人に会う。「目を痛める」「足を失う」「手を失う」など、さまざまなことを、しばしば言っている。

 

彼らはよく「足」について言うが、文字通りの「足」(禁止条項に背くと車椅子に会う)かもしれないが、「外出の可能性」「将来の可能性」を意味しているような感じもあるが、わからない。

 

毎日、家の中では怖いことがいろいろあるが、とても書けない。

 

あらゆることが「コインシデンス」している、そんな世界に閉じ込められている。出口はどこなのだろう。

 

 

今年は梅雨が例年になく早くあけて、6月にすでに酷暑だったが、このところはまた涼しくなっている。

 

昨日はあちこちで電車が止まったり、遅れたりする奇妙な日だった。私も迷惑をかけられたが、そこへ持ってきて、非現実感しかないようなニュース。

 

まったく何の関係もないのだが、先日、C.S.Lewisが亡くなったのはケネディ大統領がダラスで亡くなったあの日。それも時間的には少しだけ前だったようだ。

 

そんなことをあれこれ考えていた時だったから…。そういえば昔のことだが、ケネディJr.の事故報道をCNNで観ていたとき、チャンネルをBBCに変えたら、E.ケネディのChapadiなんとか事故、スペルが複雑なので書かないが、の特番をやっていた。

 

「たまたま」なんだろうが、ものすごく驚いた。事故の性質上、どちらも海域や湖?の映像がずっと続いていて、どちらを見ているのかわからなくなって…。

 

インドで占い師に「水」と「高いところ」に気をつけるように、と言われた。最近、というかこの数年で意味がわかってきたが、それでも、「当たっているからといって信じるのは…」と

昔聞いたように、運命と思い込まないようにしている。

 

 

ここ1、2ヶ月、陰に陽に「彼ら」の締め付けが、微妙なやりかたでひどくなってきた。

 

ぐっすり眠ることができないし、眠っても、「おまえはこういう人間だ」とか「こうなる、ああなる、これからは」といった言葉で夜中に起こされて、眠るとそんなふうにこちらは脆弱な状態なところに衝撃や苦しみを与えられるので、勢い、2時、3時でも無理して起きてしまう。

 

また、夢のなかで聞いた言葉や、あるいは過去、といってもずっと昔に自分自身が言った言葉などを、まったく一言半句違えずに、突然彼らが囁くことは、とても怖いことである。

 

昼間も攻撃は止まないが、夕方になると、勢いを増すので、黄昏時には、気持ちが暗くなってしまう。

 

私自身は身の上として、「宵待草」。

 

いつまでもそうしていられないこともあり、とにかく会って話をしたいと思っているのだけど、vaccinationとかクリアしなければならないことがある。

 

彼らはたびたび私の寿命を告知して、これは私の行動や思いによって、日々、いや、時事刻々変わっていくというtroublesomeなことなのだけど、だいたい「3年手続き」という言葉を使う。時には、60人生、80人生というのだが、これはその年代ということらしく、しかし、

80代という長寿は長いだけで苦労が多い人生だと、60だともう後がない。

 

誰に話すこともできないが、「思考」が外界に反映する苦しさといったら…。

 

自分が着て行こうかな、今日は、と思うと、そういう洋服の色柄や同じようなものを着たひとに必ずといっていいほど遭遇する。

 

今はとにかく、そういったことがあっても、ignoreを心がけている。そうしないと、生きていけないから。

 

これを書き終える「今」の時点で、「彼ら」は「70人生、運命、運命」と歌っている。

 

もしかして…と少し希望を持ったのは、今朝、思い直して、電子ピアノを開けてみた。いつもどおり、音階がメチャクチャになっているが、何度も繰り返しスケールをやって、アタマの中で補正してみると、だんだん正常になってきた。

 

しかし、「音楽」は「トーヘンボク」という私が「避けるべき人間」とセットになっている未来らしいので、脳が正常化するのはよいが、そういう者の呼び水になってはと思ったり。