連休で街も電車も空いている。そうした中で、新緑が日ごとに光を取り込みながら、色あざやかになっている。

 

今日は風も少しあって、快適なお天気だ。

 

が、もう1週間ぐらいか、あるいは、ここ数日というか、「彼ら」の夜間の活動が酷くなって、朝になると大仕事をしたあとのよう。当然、よくは眠れていない。

 

他人との交流がほとんどないに等しいので、「奇妙な生活」は修正されることがあまりない。

さらに彼らの「特殊言語」、象徴的な「モノ」に特別な意味を持たせる表現を理解するのは

非常に難しく、しかし、それが不思議なことに現実に影響を及ぼすことがかなりあるので、

24時間厳戒態勢である。

 

2、3年前から、聴力が落ちたのだが、もちろん加齢現象ということはあるのだが、選択的に聞こえない場面があることに最近気づいた。どうも霊現象のようでもある。

 

日本海側のある県で一時期有名になったweeping St.Maryの像がある。そこの堂守conventの

女性にそんなことがあったという。聞こえなくなって、いろんな「お告げ」を受け、そのうちまた聞こえるようになったとの話。

 

私はそんなふうな、たいそうな者ではないはずだが、これまでのいろいろなことが始まるころ、そんなvisionをそう言えば見えた。耳鼻咽喉科の看板とnational flowerの取り合わせで、

「なんだろう、これは」と思ったことだ。

 

これに関わったSJメンバーのジャッジは、女性が超常現象を起こしている、サイキックだと

結論したそうだが…。私はそうではないと思っている。

 

 

 

 

 

 

新緑の美しい季節になった。でも、私の毎日は、日用品や食品の買い物ひとつ、言葉のひとつ

ひとつで、「尋常ならざること」が起こるので、緊張の連続。とくに就寝中は、いろいろな

ことを文字どおり吹き込まれるというか、囁かれる(主体はよくわからない、私が受け手というだけで)ことで、動揺したり、反論したりで、朝になるとグッタリしている。

 

不思議なことは、ずっと昔、いろいろな昔の時代だが、私が言ったり、書いたりしたこと、そんなフレーズをワームが突然、通常の歌のあいだに挟むことだ。本人も忘れていることである。

 

以前にも書いたことだが、私の周囲の人々が、まるで私の欲求や行動(過去も未来も含めて)をそっくりそのままといっていいほど、再現する不気味さである。

 

ある意味、鏡像なんだろうけれど、これに関しては猛省している。ある時期、鏡をツールとしてたわいないことなのだけど、今から考えると、魔術的行為をしたことだ。

 

それが今、何かがトリガーになって、戻ってきたということだろうか。

 

キリスト教が厳しく魔術をとりしまっていることはよくわかる。こういった境界領域にあるものは、ひとつの「文化」として寛容であるのが世情だが、実は、その世界に不案内なものは、

うかつに手を出してはいけないのかもしれない。

 

夜は夜で、もう地響きがするほど、彼らの伴奏音楽が大きいので、なかなか眠れない。

 

彼らはブログを書くことを非常に嫌っている。今も「自殺行為、自殺行為」とわんわん

言っている。そういう面もあるのだろうが、もうどうしようもなく、昨晩などは、近々、

環境激変みたいなことを言って、日にちを切って言っているので、苦しい思いをしているが、

こういったことを書くこと自体、そういう将来を招来する確率が高くなるのではと思うので、

書くことは控えているが、ただ、私の身に何かあったとき、最後に証拠になるのがこれしかないと思うので、綴っているのである。

 

 

この冬は山茶花が早くて11月ぐらいで盛りを迎え、そのあとは、ポツポツと咲くぐらい。厳しい寒さのなかだと長持ちするのだけど。今週になって、桜がほぼ満開になった。ヴェランダの前の桜は八重なので、あと一月ぐらい待つことになる。

 

「特殊な環境」のストレスはもう数年になるけれど、夜がまったく「彼らの世界」になるので、体制の立て直しも難しく、夜半に目覚めて、途方にくれる毎日。

 

昼は昼で、「どうしてこんなことになってしまったのだろう…」と時折悲しく、涙が滲むことも。数年のあいだ、泣いたことはほとんどない。本当に苦しいと泣くことができないというのがわかる。

 

「どうして…」という問いには少し答えがある。Lewisが書いていたことだ。友人がoccultに手を染めて、半分狂気に陥ったのを介抱したとかの話。

 

私は魔術的なことをやった自覚はないのだが、さまざまな思想的遍歴、New Age的なツールをいろいろ使っていたこと、それらが、集積されて、物理的に逆流してきたのでは…というのが

私の仮説だ。

 

神の存在云々という以前に、巨大なHDが記憶装置として、あるのだろう。

今日も「彼ら」の声がワンワン響いている。昼も夜も止むことはない。人と話をしていても、

あいだに彼らの発した声が入っていたりして、意味不明になることもある。注意深くソートしていないと、おかしなことになってしまう。

 

また、一月ほど前には、テレビを見ていて、画面に「ありえない」テロップ、たいがい警告だが、が入ったりする。それもかなりショッキングなものだ。

 

こういった視覚・聴覚の異常は、やっぱり何かが脳に働きかけているとしか、考えられない。

その意味では、精神科というより、ニューロサイエンスの分野でないとわからないのかもしれない。

 

それ以外に、夢でみたり、ヴィジョンであったりすることが、現実に起こったりすることもある。

 

振り返ると、18年の夏の終わり頃、「こういった厳しい、制約の多い生活は無理」といって

慟哭みたいに言ったことがある。

 

翌朝、ヴェランダが一部ガラス張りになっているところに、亀裂が入っていて、ショックを受けた。

 

そういう「実害」はひどく怖ろしく、他のヴィジョナリーなことだったら、「思い過ごしかもしれない」「考えすぎでは」と思うこともできるが、実際に、そのように間髪を入れず、現実界、物質界で何かが起こると、本当に怖ろしい。

 

あらゆることが、電車に乗っても、日常の買い出しに行っても、すべてにおいて、オーメン

取り囲んでいて、一端ではなくすべてであれば、私のアタマがおかしいということになるはずだが、よほどパニックになっている時でなければ、外見的には私は普通に見えるだろう。

 

脳神経の問題ではないかとはたと思い当たったのは、あるとき、電車のなかから見た山が

当然着雪の季節なのに、まったく別の装いを見せていて、驚いたことからだ。

 

今も「彼ら」はうたっている。これらのことを書くと、「人生つぶれる」「何とかつぶれる」

「運命つぶれる」と。

 

「彼ら」は「小さな神々」と最初やってきたときに、名乗ったのだった。古い土着のスピリットなのか、いずれにしても、書いていることで恨みをかっているのかもしれない。こういったものは「結社」のようなもので、決して外に向かって情報を漏らしてはいけないのだろうが、

私にだって耐えられないときはある。

 

このところ、眠れないことも多い。ある程度眠れはするのだが、夜はまったく「彼らの世界」になってしまって、こころの休まる睡眠とは程遠い。

 

自分でも、よく生きてこられた、と最近思う。誰にも理解してもらえないこと、これほどの絶対的孤独はない。

ふと振り返って考えた。以前書いたように、暴力人間に遭わないため、そして大切なひとに会うためにはといって、「読む」と「書く」とを取り上げられて、その間、2年ほどだったと思う。

 

今は、もう、ある時期から、それらを復活させているけれど、そのほかにも、「避けるべき」と言われているいろいろなカテゴリーがあって、その数が多くなっているので、最初、数年前に私が見た「苦しんでいる私」のヴィジョンというのは、それを避けるためではなく、これらを「取り上げられた」結果ではないか、と、この2、3日考えている。

 

あと、最近、私がオーメンと呼ぶものがさらにひどくなり、木の伐採も最近大々的に行われ、

枝葉をもがれた木々が切り口のコブを見せて、2月の空を背景に立っている。

 

これは、コロナに抗するに、風通しをよくするためかとも考えたりしてみたが、美観的にもおかしいし、そこまでする必要はないと思うのだが…。

 

よく眠れない日が続き、医者に行くことも禁忌なので、少しお酒を飲むと、夜寝ているときに、ひどい叱責のようなもので起こされた。

 

暴力人間が近づいているというのだが…。しかし、これも数年前から言われているわけで、

いまさらという気もするが、このあいだの雪の雪だるまに草で数字が書いてあり、

デッドラインというのだろうか…。

 

こんな気味の悪いことばかりで、途方にくれる毎日。そして時として、精神的限界がやってくる。

明日は節分だが、「彼ら」はいつになったら「去る」のだろうか。

 

最近は何かあると「3年手続き」と連呼するが、あと1年で「彼ら」が去ると、もう人生終わり、みたいなことを言ったりする。

 

「3年」というのは、既に2年であと1年ということもあれば、丸ごとみたいに言ったりもする。

 

今の生活を続けられるのがあと1年ということなのか、それもはっきりしないので、よくわからない。

 

19年の晩秋には、寿命があと1年みたいなことをビジョンで夜などひどくリアルに見せていたが、それからもう2年以上経っている。

 

生活の仕方や目指すところによって、寿命が延びたり縮んだりするのだろうか。

 

年末から1月にかけて、家のなかで、羽虫のようなものが死んでいることが多くなった。

 

普通の人に言えば異常なことだけれど、Gも含め、ある種のアラームを彼らは発していたが、

 

そういうものは、徐々に「絶えて久しく」なっていった。

 

鳥たちのオーメンも減ってきている。

 

結局、異世界から出ようとしていると、そのはざまで、古い「あちらの世界」のものが去って

 

いくのだろう。

 

不自由な生活だが、ある種の安全を彼らが支えていたわけで、自分の「命」を保っていくのは

 

難しくなっていくのかもしれない。

 

 

 

 

年が明けて、2022年となった。

 

世の中はコロナで騒がしいけれど、ワームの国の測り難さに比べたら、結局ウィルスの問題なので、いずれ目処はたつと思っている。

 

時々不思議に思うのは、2010年代にインターネット界隈で言われていたこと、当時は本気にしていなかったことが、起きていることだ。

 

ワクチン接種が義務づけられることや、世界的に移動の自由が制限されるということで、いわゆるコンスピ…セオリーに当たるが、実際にこうやってコロナのために渡航や移動が難しくなっていることだ。当時は、政治的に強権が発動されて…みたいな話だったような気もするが、

結果的に検疫という面で、そうなっているわけである。

 

私に関しては、「思考」を介して人間同士が影響しあっていることが日々顕著なので、家に篭っていた当初はひどく辛い思いをしたが、最近は、「見えない世界」と「見える世界」がダブルになっているような事柄が頻繁に起こるので、家でひとりでいるとかえってほっとしたりする。

 

しかし、それはそれで、今もワームがこれをタイピングするたびに「人生勉強」「人生勉強」とか歌ったり、「苦しい人生に」、あるいは、「なんとかの手続き」というのをリフレインするので、こころの休まる暇はない。

 

最近は、家のなかで、アリみたいなものが、日々死んで見つかるようになって、それらはたいてい、使用禁止エリアのあたりで死んでいるし、シンクのなかでグルグル回って、よく彼らが

私のことを揶揄して、いろんな興味、いろんな人々のなかをグルグル「転職」していることを言っているのを、体現しているかのようである。

 

でも、実際、今の私には生きた人間とコミュニケーションしている場面はほとんどないので、

ふと何かを思い出したり、テレビで誰かを見たり、ネット記事で見たこととか、そんな「記憶」や「思考」によって、いわば「裁かれている」わけである。

 

こういうところからどうやって出ていくことができるのか。

超常現象と脳の過敏さが混じり合った「異世界」に私はいて、現実世界でスーパーに行って、

夕ご飯の材料を買ったり、はたまた地下鉄に乗ったり。けれど、道ゆく人々は、紗幕を通したような私にとっては「異世界」のひとなのである。

 

こころしていないといけないのは、彼らの歌やビジョンを怖れて、何もできなくなっていたり、怖れて変更したりといった、怯懦におちいってしまうことだと思っている。