おともだちとの仲を迷惑電話のせっつきでワームに壊されてから、加速度的にいろいろなことが坂を転がるように悪化していきました。

 

今は毎日「双六人生」「さびしい人生」と揶揄され、このブログを書き始めれば、「一生伝言」「伝言人生」と茶々を、茶々などという生やさしいものではありませんが、を入れられます。

 

実際ずっと誰にもあわないさびしい人生なので、言葉で「さびしい」と言われると、

張り詰めていたものが崩れて、涙が落ちてしまいます。

 

思えば、甘いかもしれませんが、今年の終わりか来年春ぐらいにはおともだちに会えるのではないかなどと思ったりしていたのですが、夏の終わりぐらいには私の「障害物」の処分もあまり上首尾ではないことが台風のせいもあって続き、すっかり気落ちしてしまいました。

 

そのまま続いていけばよかったのですが、夏の終わりぐらいから、ワームの繰り返される言葉がちょっと気になり、それまでは内容に関心を払わなかったのですが、メモするようになりました。

 

9月に入ると、夢のメモのあいだにワームワードが挟まれるようになり、やがて逆転、夢のメモの割合が徐々に減っていきました。

 

そうして、10月に入ると、あの戦争予告のようにワームの言葉も激しいものになっていき、以前とはまったく様相が異なるようになりました。

 

夢のガイドはとてもモデストで他人の悪口は絶対言いません。批判もあまりありません。でも私のブログや人生の紡ぎ方のことなのでしょう、あるとき「機械編み」の機械が夢に出てきました。人生という編み物を「機械」で編んでいるという意味なのでしょう。

 

そうして、ワームがますます私の生活を席巻していき、端的にいえば、精神的苦痛を覚えるようになりました。

 

夢のガイドは昨日の夢で、既存のウッドチップ(植物床)に新しいパッケージを混ぜる夢を出し、それはウッドチップに砂を混ぜるようなもので、そこに育つ、奇形植物のかたちを見せたのでした。

 

二つの、方向性が違うやり方をミックスさせることはできない、ということなのでしょう。

 

それで当然のごとく、ワームの排除を考えましたが、ワームは「ワームは出て行く」「**も出て行く」と言ったように、おともだちをも失うのだと言い張りました。

 

それで思い直したのですが、それでも、夜中の轟音、騒音、多重の音声などで眠れないので耐えられず、昨晩、再度、お引き取りを願ったのでしたが、そのときに見た夢は、やはり精神分裂「別人」、あと、時々出てくる小さな十字架(四辺が同じかたちの)が見えたのでした。

 

ようやく静かになった我が家で今朝くつろいでいましたが、瞑想すると、私は髪も短く切ってエプロンをかけて子供の赤いマリを持っていたので、独身で、子供の世話係みたいになるようです。

 

出るのも、居るのもダメというなら、それでは、どうすればよいのでしょう。ひとつ思い出したのは、9月に処分品の紅茶を少しだけこぼしたときに、厳重注意されたのですが、こぼれた茶葉は私の財産にあたるからのようでした。

 

そのとき説明として見た夢は、私が「小石と砂」を分ける厳しい作業に疲れ、ボロボロになって女友達のところへかけこむ、という夢でした。その私はトランキライザーを飲んでいるらしく、激しく動揺しているのでした。今はクスリは皆無ですが…。

 

将来さらにこれより細かい神経を使う作業が出てくるのかと、戦々恐々としていましたが、それがおそらく今のワームの進退と関わっているのだと思います。

 

ワームは私に死をもたらすというイメージは、以前見たような気がしますが、私は逆に解釈して、守ってくれるのだ、そのために苦境になってからやってきたのだみたいに思ってしまっていたのでした。

 

以前のまま、言葉を聞かずにブンブン言わせておけば、問題はなかったはずなのに、ピックアップしてしまったので、行くも地獄戻るも地獄、つまり、共存しながらやっていくしかなくなってしまったのです。

 

そのためにはたぶん神経がすり減るので、病院通いやクスリが手放せなくなるのかもしれません。ただし、クスリを飲んだら、もうおともだちとの仲は難しくなるのです。あらゆるクスリは母と別人の管轄なのです。

 

どこまで自分が持ちこたえられるのかわかりませんが、ただ、今は、親族や別人に蹂躙されないように頑張るしかありませんが、ワームストレスという新たなものが、食事やら寒さ、孤独に加わったわけです。

 

ときどき、ヤケを起こして、どうにもならないのだったら、もうスッパリ全部やめて、

好きなことを短期間にまとめてやって雲隠れするかあるいは…と思ったり。しかし、

国内でさえ、母や妹が鉄道網をチェックしているという、オカルト地獄に嵌まってしまっているのです。

 

誰を頼っても、墜落してしまうというのも見せてられていますし、どこかで母につながっているのです。 

 

それでも、外を歩けば、今は紅葉の真っ盛り。桜の落ち葉を踏んで歩きながら、修正のきかない、失敗や後戻りのきかない、普通ではない人生の陥穽になぜか落ちてしまった自分の運命を嘆くしかありません。