家族

雨こそ降っていないが、肌寒い雲りがちの日。なにかもうちょっとましなものを食べないと…何をするにも体力、気力が湧かない…。

 

朝から、古い写真類のなかにはさまっている紅葉などの押し花を探して、大きな段ボールいっぱいのポケットアルバムを端から探していた。結構時間がかかった。

 

夢がいうには、それがおともだちと私の絆を損なうものだというので…。

 

ようやく何枚か見つけた。紅葉の葉をはさんだりするのは母の趣味なので、母が「ハサミ」ということなんだろうなあ、と。

 

若いときの私の写真や家族の写真も当然いろいろ出てきて、複雑な思いになった。

 

「夢」が言うには、私は自分が自立して働いてきたと思っているが、それは親の経済力の裏付けがあってはじめて可能だったことで、虚像のようなものだ、と。そうして、その構造に絡め取られてしまっており、そこから脱しないと、結局は隷属状態となって、利用されてしまうということだ。

 

それはわかってきたのだが、こうやって写真をずっと見てみると、それが余計リアルに感じられて、砂上の楼閣的な、虚しく、悲しく、悔しくもある気持ちがこみあげてくる。いったい、これらの年月はなんだったんだろう、と。

 

夢は、私が「白いもの」に固執、つまり「正しさ」にこだわり続けて、その先にある破滅がわかってないと言う。正しさとは、親の面倒をみるとか、そういった世間一般でよしとされている価値観や、社会的な事象への正論的態度であるようだ。しかし、それで自分が幸福なのか、充実感をもっているのかと、指摘しているのである。

 

おっしゃることはごもっとも、である。

 

ここにきて、世話されていたほうが、ジェラシーなどによって「連携」を妹一家にシフトさせようと考えている深層心理を夢が見せてくれて、さもありなんとは思うが、実際に動きがあるわけではないので、今のところはどうしようもなかったりする。

 

このところの十数年の写真をとってしても、私がその中で着ている洋服は、引越しや今回の処分でどれもこれもなくなってしまったことに探索中に気づいた。

 

私には実際には力がなかったとすれば、今、着るものがなくて困っている私の姿が本来の姿なのだろうか、とか。

 

綺麗な洋服を着たいとかではなく、春先で寒さよけ、雨よけのコートがなくて本当に困っている。それにある意味、コートを着ていれば、下は何を着ていてもわからないわけでもある。

 

ご飯と水だけの生活は文字どおり「死闘」であって、何と戦っているかといえば、家族のしがらみである。これを通り抜けなければ、私の「復活」はありえないのだろうか。夢はそう言っているように思えるが。

 

探し物をしながら、家族の写真をあれこれ見つつ、いかなる星のもとに生まれたのか、と考えていた。