探すことがあって、2012年の2、3月の日記を読んでいた。東日本大震災から1年ぐらいのころで、まだ余震が頻繁にあり、世の中も落ち着かない雰囲気だったようだ。

 

今読み返してみて驚いたのは、自分がたびたび地震津波の夢を見ていることだ。いわゆる予知夢みたいなものだが、「20」とか日付がはっきりしていたりする。あるいは、「渋谷直下型」みたいなテロップが出る夢とか。

 

2007年に見た原発事故の夢が、4年を経て、「正夢」だったということがわかってから、自分のなかで夢の位置付けが変わったようで、これらの夢に翻弄されて、不安になったり、恐怖を感じたり、さらに避難行動をしたり、いろんなことをしていることに、今更のように驚いた。原発の夢の「当たり」が引き起こしたともいえる。

 

結局、たくさん見た、これらの夢で”当たった”ものはなかった。ひょっとすると、もっと長いスパンで実現するのかもしれないが、とりあえず「日付」のあるものは、ハズレであった。

 

多分、ここまで動揺が酷かったのは、当時は拘束される仕事がさほどなかったので、自由がきき、余計に、避難などを具体的に考える条件が揃っていたのだろうと思う。軸足を失っていたともいえる。

 

ある意味、地震自体より、風評や無意識の世界に翻弄されるほうが、数倍「恐ろしい」と感じた。現実に起こることは限定的だが、予知や不安は際限なく広がるからである。

これを通り越してもまた次が…と考えてしまう。

 

つい数日前も、キノコ雲の夢を見たりした。

 

今の食事や引きこもり、カーテンの閉め切りにしても、親族の奴隷になってしまうからということなのだが…。そこが不安で、また、少ない食事に戻して、それなりに落ち着いているが、もちろん決して快適ではない。

 

今日読んだ震災の頃の自分の「心象風景」と今の状況が似ていて、ある意味ぎょっとしたことは事実。親族の奴隷云々というのは、ある部分は、あまりはっきり物を言わない自分の性格から可能性として考えられる上に、さらに、家族の力関係で私が潜在的に持っている不安が投影したものとも説明できる。

 

でも、「見えない世界」の存在をある種感じる自分は、それだけでは説明できないものもたしかにあるような気がするのであるが(ガイダンスはそれをある種の運命的な力、慣性のような力として捉えているようだが)、行動するにあたって、それを信じきることもまた難しい。それに、現実社会とどうしても齟齬が出てくる。

 

 ある程度、参考にする、というのがバランスのよいところだろうか。