非常持ち出し袋

八重桜も散り始めた日曜日。朝はめっきり冷え込んだが、昼間は汗ばむ陽気。

 

内閣府では、ミサイルやバイオテロ化学兵器の使用があった場合の対応をパンフレットにしてつくって、ネット上でPDFで公開されているのでパラパラ読みしてみたが、

窓から離れるぐらいはいいが、地下室のあるような家はあまりないし、実際、そうした汚染があった場合、掃除などせずに警察や消防に通報して、あとは体を水と石けんでよく洗いましょう、程度のことで、全然とは言わないが、あまり役に立ちそうもないので、印刷するのをやめた。

 

自治体によっては、避難訓練もしているところもあるのかもしれないが、首都圏ではそんな話も聞かない。

 

第二次大戦時、ロンドンで子ども時代を過ごした知り合いが、以前、当時すでに、ナチスの毒ガス攻撃に備えて、映画に出てくるような防毒マスクが配られた話をしていたのを思い出し、日本は「竹槍」の時代とあまり変わっていない精神構造なのだなあ、と思ってしまう。

 

北欧やスイスなどでつくっているような核シェルターの話なども、こんなにたびたび脅威にさらされている割には、つくろうという話も聞いたこともない。

 

呑気というか、「なるようになる」といった運命観、価値観の日本は、やはりアジアの国なのだなあと思う。それそれで悪くないのかもしれない。

 

私も、東日本大震災のあとの、過剰警戒の反動で、あれこれ備えることに倦み疲れ、水や食料だけは確保してあるが、さまざまな備品を備えたりするのはもうやめている。

 

あのころは、貴重品だけでなく、PCのデータや写真類なども、非常持ち出し用に厳選バージョンをつくったりして仕分けしていたが、そうした作業をいろいろやりすぎて、どこへしまいこんだかわからなくなったものなどがあり、かえって困っている。

 

昔は本にも執着があったが、「どうしても持っていたい」というものも、あまりなくなった。大事なものであればだいたい頭に入っているわけだし。

 

ただ、草津翁の遺品というか、写真や原稿、手紙などは、自分のものではないので、

ある意味どうしようと悩む部分がある。大震災のころは預かり品で貴重なものと思っていたので、地方へ行く時も必ず携行していたぐらいで、実のところ大変だった。

 

ところがある時、この遺品(といってもわずかばかりのものだが)、これを送ってくれたN師が、私が避難をしたときもいつも携行している旨を報告したときに、一向にその所在を気にしていない風で驚いたことがあり、それ以降、後生大事に持って歩くことはやめた。

 

自分のものであれば、決断は自分でできるのだが、いささかこの存在に困っていたりもする。

 

考えてみると、祖母の数珠であるとか、伯母が書き残した自分史みたいなノート数冊とか、処分できないものがいくらかあって、これらも捨てるわけにもいかず、困ったものである。

 

そう考えてみると、自分にとってどうしても持ち出したいものというのは、少ないなあ、ということに気づき、感慨深いものがある。6年前のあの時には、あれも、これもと思っていたのだったが…。

 

その意味では、「有事」は天が見切りをしてくれる、好機なのかもしれない。実際、あの震災がなければ、私も今ここにこうしてはいないと思うわけであった。