大相撲九州場所

雪が融けて、また秋の風景に逆戻りしたが、そこここの日陰に雪がうっすらと残って、

そこに名残の紅葉などが落ちているのも風情があったりする。今日は暖かい日だった。

 

大相撲は今場所(九州)が今年最後の場所で、明日日曜日が千秋楽だが、横綱があっという間に負けたり、昇り調子で優勝かとか言われていた力士が場所半ばで急に負けが続いたり、と、番狂わせが続出で、毎日手に汗を握っている。

 

それにしても、モンゴルを筆頭として外国人力士が半分以上(実数は知らないが)という印象を受けるのも、寂しいかぎり。

 

相撲には詳しくないのでなんとも言えないが、やはり外人力士が増えて、相撲の取り方自体も、変わってきている印象もある。「勝てば良い」ということならば、レスリングと変わりがなくなってしまう。品格というか風格が失われつつあるのは残念なことだ。とくに横綱白鵬は、獲得した懸賞金を握った手を、「どんなもんだい」といわんばかりに振ってみせるのは、本人は見せびらかしのつもりはないのかもしれないが、品がなく、つや消しである。

 

 しかし、面白いのは、力士のインタビューを聞いていると、皆本当に日本語がたっしゃで、舌を巻く。実に自然な日本語でまったくアクセントがないのは驚くべきことだが、これはやはり寝食をともにして、「師匠」「おかみさん」「兄弟子」「弟弟子」などのあいだで、揉まれるからだろうか。

 

今年を振り返るにはまだ早いけれど、春には熊本大地震もあったし、つい最近も博多で道路が大陥没したりと、九州もいろいろな災害があったわけだが、こうして、つつがなく相撲がおこなわれていることが、文字通り「有難い」(稀有な)ことだと、場内の歓声や湧き上がる拍手、応援のかけ声などを耳にすると、感じることだ。

 

国会やら政治家のやり口、あれこれの事件報道をきくと、悪いことばかりのように思ってしまうが、一方で、とくになにかの役に立つわけでもない相撲などが、楽しんで受けとめられている「日常」こそが得難い、大切なものなのだと感じる今日このごろ。

 

「平凡」「日常」「変わりない」ということが、実は貴重なことだと、ようやく私もわかるようになってきた、ということか。

 

願わくば、これからの人生、どんなことが出来したとしても、このこころのなかの「核」(=変わりのなさ)をだいじにしていきたい。