運命の変転

涼しいを通り越して、肌寒いぐらいの気候になった今日このごろ。サンダルもまだ片付けていないのに、秋のほうが先に来てしまったみたい。雨の日が続いたこともある。週末は少し暑くなるので、名残の暑さに少し期待をしている。

 

このところずっと、マリー=アントワネットの首席侍女だったカンパン夫人の回想録を元にした伝記を読んでいるが、ページを繰るのももどかしいぐらい面白い。

 

アンリエット・カンパンはブルジョワ階級出身だったが、娘に持参金をつけられるほど裕福ではないと判断した父親が、教育にお金をかけるという卓見のもと、当時としては破格の、最高の教育を受けた。アカデミー・フランセーズの未来の会員の作家や、ヴェネツィア出身の戯曲家ゴルドーニなどを家庭教師につけ、英語の教師はイギリスから招かれ、ピアノ、ハープ、絃楽器、声楽教師としてナポリ音楽院から歌手を招いて、教師にむかえたりした。

 

父が外務省の秘書官だったためヴェルサイユで育ったが、15歳のころには、英語とイタリア語を流暢に話し、さまざまな楽器を演奏し、美声をもって完璧な朗読をするということで、噂が宮廷にまで及び、ルイ15世の娘たちの朗読係(レクトリス)として、宮廷にお目見えすることになった。

 

のちに、マリー=アントワネットの首席侍女となって、20年のあいだ忠誠をつくし、

革命が起こったのちも一貫して王家に忠誠を尽くし、亡命したりすることはなかった。

若いときから、権謀術数渦巻く宮廷生活を見てきたので、生来の慎重な性格もあろうが、王家の没落から、王家に仕えたものが受けた迫害の時代を経ても、その賢慮をもって一族郎党を支え、生き延びたのだった。

 

「墓石のように口が堅い」とたとえられるほど、ルイ16世と王妃アントワネットの信頼は絶大だったようである。国王から託された極秘書類(革命派に見つかれば王の命が危うくなるが、一部は王の裁判に有利なものもあった)を転々と預け場所を変え、守り抜くあたりはサスペンス映画さながら。見つかれば、関係者としてギロチンものであったから。

 

革命によって家も財産も失ったアンリエットは、生活のために女子学院を創設し、

(とくに教育者として訓練を受けたわけではなかったが)、ナポレオンの義娘や

妹といった娘たちが評判をきいて学院におくられ、のちに欧州の王妃や公妃となったのであった。

 

革命によって失われた貴族社会の礼儀や伝統を教えつつ、あくまでも、アンリエットの考え方は近代的であって、理性や知性をもって娘たちを教育し、革命政府の横槍も入ったが、当時禁止されていたキリスト教の教育なども施していた。

 

気丈なアンリエットではあったが、王家の最期の悲惨な体験は、ずいぶん長い間悪夢となって夜な夜な彼女を苦しめたようである。

 

ただし、世の中の変転を身を以て体験しただけに、娘たちを教育するにあたって、お題目だけではない、生きる姿勢や哲学を教授することができたのだろう。

 

非常に高い教養を誇っていたといっても、「女学者」にありがちな堅物ではなく、生徒たちの楽しみの日を設けて、授業は休みにして、タルトなどお菓子をふるまう日があったというのなども、楽しいエピソードである。

 

彼女が「回想録」を執筆したのは、彼女の成功が非常な妬みを買い、王党派からは皇帝ナポレオンに仕えたといって非難され、帝政支持者からは、かつてのブルボン家の忠臣だったとして誹謗中傷を受けた、それに対しての弁明のためであった。王家の逃亡を密告した張本人だという中傷やら、王の機密書類を燃やしたと非難するものもいたのであった。

 

ツヴァイクなど、近年になってもその傾向はあったらしいが、最近ようやく、彼女の鋭い観察眼と「口をつぐむ稀有な能力」に賞賛が寄せられるようになってきたようである。

 

率直な物言いは非常に興味深く、マリー=アントワネットのごく近くにいた者にしか書けない真実がいろいろあって、面白かった。浪費家のように思われているアントワネットが実は非常に吝嗇であったということなど(それがゆえに不利を招いた面もあった)、歴史がいかに歪められているか、噂や中傷が一国の政体をも変えてしまうということを見せつけられて、心胆寒からしむるものがある。

 

ふと思ったのだが、「革命」は平民が打倒貴族階級として起こしたように見えるのは、実は表層であって、ルイ16世に叛旗をひるがえしたのは従兄弟のオルレアン公ルイ・フィリップのような王族であり、ニコライを前線に出したミハイル大公のように、ロシア革命と相通じるところがあるように感じた。善良で国民を信じていた王(ルイやニコライ)は、むしろ身内に裏切られたといってもよい。