お盆の憂鬱

ずっと左の歯が痛かったのだが、今日は右側も痛くなり、噛むことがあまりできないので食べるのだ大変だ。昨夕は急に頻脈の発作がおこって、食事も中断して休んでいたのだが、体力が全体的に低下しているのかもしれない。札幌では歯の治療は全部済ませてこちらへ来たのに、また大々的に治療ということになるのか…。

 

シロニャンはずっと私のベランダの方へは来なかったのだが、昨夕具合が悪くなった頃、久々にやってきて、寝そべったりこちらを見たりしていた。お盆休みだと病院も開いてないところが多いので、心細かったのだが、シロニャンのおかげで少し慰められた。

 

お向かいさんが最近引っ越して空き家になっていて、ここでは二戸が向かい合っていて、隣というものがない建て方なので、そもそもが森閑としたなか、お盆でますます静かになり、さらに具合が悪いというので、戦々恐々だった。

 

今日は終戦記念日。最寄りの駅からはこのT市の大きな霊園行きのバスが出ている関係で、お盆の墓参のひとが少なからず今日はいた。スーパーでも仏花がよく売れていた。

 

71年目の戦後といっても、戦争を知らない自分には特別な感慨はないものの、やはり若くして亡くなったひとたちのことを思うと、戦争には勝者も敗者もない、愚かしいことだと思う。

 

保坂さんという、私も評価している昭和史のノンフィクション作家がラジオで話していた。

 

彼のところには、戦争の記憶を墓場まで持っていくつもりだった元兵士たちが、最後に記録しておいてほしいと話をしにやってくることがあるそうだ。

 

しかし、そういった辛い話は、どこかでお茶をのみながらできるようなものではなく、

車でどこかの山に出かけたり、隅田川の土手などに誘って、日常から離れたところで

話を聞くことにしているという。

 

なかでも、ショッキングだったのは、特攻関係の話。彼のところにあるとき、かつて特攻機の整備兵だったという老人が訪ねてきて、もう先がないので、話を聞いてほしいのだという。

 

特攻の出陣は巷で華々しく喧伝されているようなものではないことは、自分たち整備兵が一番よく知っている。命令をきいて、失神したり失禁する特攻兵を抱きかかえて戦闘機に押し込んだのだ、そういう自分は人殺しだったと、長年苦しんだことを彼は打ち明けたという。

 

太平洋戦争で従軍したアメリカ兵の聞き書をしたこともあるが、自分が殺した日本人の苦悶の様子が今でも夢に出てくるという。その相手の名前を知りたいというので、探してあげたこともあったという。

 

これらの話をきいたのち、午後7時のニュースで武道館で行われた戦没者慰霊祭の様子が流れたが、恒例のように天皇が「お言葉」を読み上げたが、大元帥昭和天皇の名のもとに亡くなったこれらの若者たちのことを考えると、ひどく割り切れない気持ちがした。「反省」とはあまりに軽い言葉ではないだろうか。

 

長野に「無言館」という戦没画学生の遺作を集めた美術館があって、かつて行ったことがある。故郷の風景や何気ない団らん風景、静物、人物などいろいろな絵がある。

経緯が経緯だから館内の雰囲気は重いものがあるが、絵自体は皆、若々しく、それだけにいっそう彼らにはなかった「未来」の不在を感じさせる。

 

押し合いへしあいして見る名画の展覧会よりよほど感動的だし、絵と静かに対話することができる。

 

戦争もやむをえない場合もあるかもしれないが、それにしても、犠牲になるのはいつも

「普通のひとびと」である。

 

今日も女性閣僚が二人、靖国に参拝した。靖国の大門扉の光り輝く菊の御紋は超特大である。拝殿の幔幕の菊の御紋もむやみと大きい。

 

日本が頂いている「象徴」は、靖国の金属板のように輝かしい、罪も穢れもないものなのだろうか?