confessor

蒸し暑さが続く。とはいえ、夜は冷えるのか、エアコンや扇風機を入れていると、からだがつめたくなってしまう。難しい日々。

 

 安倍内閣は現在内閣改造中だが、稲田朋美防衛大臣になるらしい。小池新都知事といい、稲田といい、日本会議神道政治連盟の主要メンバーになっているようなひとたちが、どんどん政治の中心になっていくことに、危惧を感じている。女性を使ってソフトなムードを演出している傾向が安倍政権にはあると感じる。

 

さりとて、護憲派は教条的な左翼ばかりで、説得力に欠ける。ため息しか出ない。

 

反戦と愛国は実は矛盾しないと思うのだが、なかなかそういうメンタリティを持つものはいない。

 

日本では稀有な例として、先の戦争のときに、徴兵忌避ではなく、「兵役拒否」をした

明石順三と灯台社のひとびとがいた。「逃げ」の徴兵忌避ではなく、己の信条と良心に

基づいて銃をとらないことを選んだひとたちがいたということは、当時の日本の軍国主義一色の時流からは想像を絶することである。

 

しかも、彼らはせいぜい百数十名の組織で、キリスト教諸派のなかでも、異端視される存在であった。

 

灯台社の教義は、明石順三が在米中に親しんだwatch towerの教説をベースにしており、その基本をおさえているようであるが、内容的には、順三自身の書きぶりによって、さらに体制批判的要素が濃いといわれている。

 

順三によればたとえば、三位一体とは奇怪な「邪教理」であり、その淵源をみるに、ローマの多神教を奉ずるひとびとをキリスト教に信服せしめるために、三をもって一となし、一をもって三とする、教説を生み出したとしている。

 

偶像教徒とキリスト教徒、どちらにも通用するような、矛盾を包摂する教理を編み出して、コンスタンチヌスが自己の勢力維持に利用したと考えるものである。そうしてアタナシウス派が主導権を握って、他の諸派を圧倒し、キリスト教の根本原理として採択されるにいたったと説明している。

 

これは、実際、ニケア公会議以降、キリスト教が大きく変貌したことを考えると、あながちまとはずれともいえない。ナザレのイエスの教えからはずいぶん隔たってしまったことは事実だろう。

 

私も、最初に、灯台社の話を読んだとき、「え、あのwatch tower」「信じられない」と驚いたものだ。

 

しかし、戦争中、カトリックプロテスタント聖公会も、いわゆる正統派のキリスト教といわれるものがみな、組織維持のために、汲々として国策協力に雪崩れていったことを考えると、watch towerの流れを受けているからといってバカにすることはできないと思う。

 

そういえば、極右団体「日本会議」は、だいたいが神道教派神道新宗教、などが

参画しているのだが、なかにキリストの幕屋というのがあって、キリスト教系でも

こういう団体に入るものがいるようで、驚きだ。

 

灯台社のことはあまり知られず、書籍も絶版のようだ。私が唯一持っている岩波新書の小さな本には、裁判記録などもあるのでまたじっくり読んでみたい。日本の法廷でニムロデやルシファーという言葉で応酬があることなど、稀有なことだっただろう。裁判長も勉強が必要だったと思う。

 

順三の裁判所での答弁に、私は「コンフェッサー」という言葉を思う。御使の前で私を否定するものは…といった聖書の箇所を思い出す。

 

そういえば誰かが、草津翁のことを「コンフェッサー」と呼んでいた。翁はロシア系だが、ロシア正教徒を標榜するのをよしとせず、ことあるごとに自分は「ギリシャ正教徒」と言っていた。こういわないと、政治的要素を抜いた、普遍的な、orthodoxという意味にならないと、彼は思っていたに違いない。