to be honest

奇妙なニュースが騒々しく飛び交ったこの一週間だった。北海道の子供置き去り事件だが、この一連の経緯を報道通り信じることは難しい。自衛隊の実弾誤射事件など、かの地におかしなことが続いている。

 

さて、木曜日に一大決心をして「この8年」という記事を書いたのだが、はっきり書きすぎたことに不安を感じて、下書きに戻し、さらに存在自体に恐れを感じて、削除してしまった。関係ないかもしれないが、一種の超常現象が起こったからだった。それは未だに単なる自然現象だったのか、よくわからないのだが、私の家のベランダ周りのケヤキの大樹や草原に数百万羽のムクドリの大群が、私がブログのボタンを押すとほぼ同時にやってきて、空が暗くなるぐらいだったのだ。それは1、2時間続いた。

 

削除した内容を、もう一度、記憶をたどって書いてみる。

 

***

 

いったい今後自分がどの方向を目指せばよいのか定まらず、フランス語で歴史を勉強したり、外国料理のクラスをとったりしていたが、自分でもなんとなく何をやっているのか、行きくれている状態である。料理は自分が食べてみたいものということもあるが、お友達が帰ってきたら、その世界のマネジメントか何かの点で、役に立つかもという目算もあったのだ。(今月にはもうひとつ、アメリカ料理の予約がのこっている。)

 

なぜこう定まらない状態かといえば、フランス語はできればプラスにはなる程度、今の世の中ではビジネスベースは英語ができれば十分である。ブラブラしていては精神的によくないので、以前行っていたアテネフランセへ行こうと思ったのだが、その頃、奇妙で怖い夢を見た。夢といってしまえばそれまでなのだが。

 

デパートなどが付設した池袋駅の大きな駅舎の屋上で、男が大きな旗を振っている。それはカナダの国旗でメイプルの葉がはっきり見えた。

 

これは奇妙な夢で、最初なんのことだろうかと、わからなかった。

 

アテネフランセは英語と仏語の学校だが、カナダ人の先生がいるわけではない。ああ、これは一種の「警告夢」なんだなあと感じた。しかし、アテネに行ったからってそれだけで自分の運命がどこか望まないところへ行ってしまうなんて非合理的なことがあるものだろうかと半信半疑、また妄想や恐怖でしかないのでは、と思い、やめることもためらったが、仏語なら別の学校があるので、そこへ行くことにしたわけだった。消去法による選択であるから、自分でもしっくりこないのである。

 

池袋駅アテネに行くときの通過点であり、住んでいる沿線にあるから、家の近くにくだんの人物が迫ってくる危険があるという印象を持った。

 

はっきりいえば、ずっと遡って、おともだちにヴィーヘルトの本を送ったときから、大きなわだかまりがあった。

 

私としては、連絡をとることができなかったので、おともだちのFatherに荷物を送ることがあったら同梱してもらえないかと頼んだのだが、自分の名前で送ってもらっていいですよ、ということだったので、なんの疑問もなくそうしたのだが、その頃、白昼夢としてあるvisionを見た。

 

ビリヤードルームみたいな広いテーブルの向こうにいる人物が不審そうにこちらを見ている。こうしたvisionは曖昧な夢と違って、めったに現れることはないのだが、明瞭な危険や危機を知らせてくれることを経験的に知っている。その、「めったにない」ことだった。

 

その部屋はよく考えると、A市のおともだちの家のダイニングテーブルだったのだ。キッチンテーブルではない方の。だから、不審顔をしているのは、おともだち、だ。

 

なんの疑念もなく、送った自分だったが、「あ、そうか。疑っているのだな」と、そのときは、ジェラシーというか考えすぎなのではないかなあと思っただけだった。しかし、いわゆる白昼visionはそうした主観的なものは伝えないはず。

 

そうしていくうちに、だんだんいろんなことが別のかたちをとって見えてきた。もっとずっとあとのことだが。

 

ある時期から、Fatherにおともだちはどうしていますかと聞いても、「元気ですよ」としか答えなかったこと。あるいは、「仕事をクビになったんですよ」というから、「では何をしているんですか」と聞くと、「言えません」とピシャリと言われた。だいたい、内情は推測がつくから不要な質問だったが、Fatherがどう把握しているのか、ためす気持ちがあったのかもしれない。この「言えません」自体は構わないが、その言い方が、いかにも彼は私の支配下にある的なニュアンスを感じ、嫌な感じがした。

 

振り返ると、奇妙なことがいろいろ出てきた。最初は、自分の考えすぎだろうとか、バイアスだ、邪推だと打ち消そうとしたのだが。

 

ひとつは、2009年にお宅にうかがったときに、ピアノがなくなっていたことである。おともだちの帰還を願っているにしては、と思ったが、それでも、そのときは、

今は電子ピアノが夜でも弾けるし、そういうことなんだろう、と好意的に解釈していた。

 

帰ってもらってきては困ると言われたのは、横浜を出る直前の夏頃だったと思うが、それ以前にも、お葬式のころだったか、右も左もわからないものが葬式にきてもといった言葉、そうした、おともだちをオミットするような発言が増えてきて、そのころはわからなかったし、たいそう苦労した家の売却やら引っ越しやらで頭がいっぱいで、考えている余裕がなかったのが現状だ。

 

しかし、なんとなくの疑念、わだかまり、さらには危険を感じて、S市へ行っても連絡をとらなかった。その意味では、慣れないところで知るひとも全くなく、本来頼りにするつもりだったので、かなりその時期は苦しい思いをした。2012年の9月の引っ越しから、大雪が降った11月、年末にかけてである。

 

しかし、はっきりした証拠があるわけでもなく、おともだちのジェラシー由来が私の意識にも投影しているのではという思いも一方であった。それでも連絡したくないと思ったのは、本来私はおともだちと「お友達」であるから、その親族として敬意を払ってきたわけで、本来の「おともだち」についてネガティブなことを言うのは、私にとって不愉快なことであり、最終的にはそういうひとを尊敬できない、はっきり言うと、嫌いだ、という気持ちであった。

 

が、嫌いな人とも付き合わなければ世の中を渡っていけないことも知っている。

 

2013年お正月、これならばリスクがないだろうと、形式的に住所だけを書いた年賀状を送った。「連絡がないので案じていました」という返信があった。性格が悪いのかもしれないが、「本当?」みたいにクールに思ったものである。

 

しかし、これがきっかけでお友達が伊予柑とタラコを送ってきてくれて、それはとても嬉しかったし、わだかまりはあったものの、ともかくFatherというパイプがあるからこそ、連絡がとれるようになったわけだったので、嬉しかった。

 

その後、しかし、やはり直接連絡はとれないわけで、大統領の就任演説の時期だから連絡を控えてくれとか、Fatherから連絡があったり、見知らぬ土地で、あれこれ教会へ行ったりしてみたが、どれもトラブル含みであり、結局孤立したなかで、母との関係もさらに難しく、八方塞がりだった。

 

思い余って、おともだちに手紙を書いたわけだったが、この頃は精神的にもかなりまいっていて、いろんな夢を見たりするので、もう自分がこころの病なのではないかと思い、医者の予約をとろうと受話器をとろうとしたときに電話がなって、それがおともだちからの、久方ぶりの電話だったというわけであった。あまりにも偶然で驚いた。

 

それからしばらくは、音信が復活したわけだったが。

 

春も近くなってきて、Fatherが、そちらにいる旧知のひとの容態がたいそう悪いから、雪がとけてきたらお見舞いにいきたいと思うという連絡があった。私は当時、姉上が引っ越したことはまだ知らなかったから、別にわざわざそういう事情まで言わなくても、

娘がいるのだから当たり前のことなんだし、と思ったが、疑いだすとキリがないが、妙に言い訳めいた、S市訪問の話が気になって、3月は上京するので云々とか返事をしていた。それに容態が悪いひとなら、冬でも列車はあるので、待ってなどいられないはず。

 

おともだちのタラコがたくさんあって、いかに冷凍といえども、味が落ちると危惧して、また、こんなことでまたこちらにパイプをつなげればいいと思い、引っ越し直前姉上の電話番号を教えてくださいと他意なく聞いたときに「今は携帯電話だから誰にも教えないで」と本人から言われた、という、よくわからない拒絶をされたにもかかわらず、再度聞いてみた。「姉上はご近所のようだから、(中央区ときいていた)

少しいただいたタラコを美味しいうちにおすそ分けしようと思うのですが」とFatherに尋ねたところ、引っ越したという話で驚いたのだった。

 

あまりに驚いたので、引っ越しがいつだったのか聞き忘れたのだが、至極納得したのは、以前尋ねたときに、すでにS市にはいなかったのではないか、あるいはそのつい前後だったのではという気がしたし、敢えては姉上については電話番号の件もあり、避けられているような気がして触れなかったが、S市にいるという前提で考えていたわたしにとって、なんだか「騙された」ような気がした。

 

それでも、連絡が復活したおともだちから姉上が私との交際に反対していることを聞き、そういう状況だから、Father は敢えて伏せて、いずれなんとかいい方向へ持っていこうという心づもりなのかもしれない、と考えてみたりもしたのだった。

 

が、一連の流れを考えると、Father自身、おともだちと私の関係をとりもとうという意思がないことは見てとれる。

 

姉上もひょっとしたら、Fatherの底意をうすうす感じて、態度を変えたのかもしれないと思ったり。2008年に会ったときは「変人の弟をよろしく」と最後に挨拶されたわけだった。親族のごたごたに巻き込まれるのをあるいは嫌ったのかもしれないし、Fatherのことかもしれないし、もっと別の、物質的な理由もあるかもしれないと感じる。

 

とにかく、タラコの一件で、伏せられていた引っ越しの件がわかり、驚き、(内心)怒り、また、ようやく経緯が見えてきて納得もした私は、以来、Fatherとは連絡を一切とっていない。

 

Fatherの野心、それがもし本当だとしたら、人間として許せないものを私は感じるのだ。

 

その意味で、S市に行ったのがそもそも間違いだったという気がすることもあった。しかし、2012年の1月、おともだちが「何かあったらO市へ」という電話をくれて、

最初に電話に出た母や私に言ってくれたわけで、あの当時の、放射能問題の不確定さと余震の連続から考えて、あながち間違っていたわけでもないと思う。あのとき、お友達は「父にも話しておいたから」と言った。

 

しかし、Fatherに引っ越しや避難の件を切り出したところ、非常に懐疑的だったので、狐につままれた。それもあり、候補地としては九州も考えそれを話したら、「あてがあるんですか」と強硬に反対された。ウエルカムでもないのに、他へいくと反対するのかと思ったことである。「文化が違いすぎる」と説明され、そういうことはあると納得、しかし、今度は長く続く家内のゴタゴタでとにかく家は売却するのがベストと決め、O市がダメだからSという窮余の選択だった。

 

さらに邪推かもしれないが、O市がダメでSならFatherにとってOKということは、結局、人目がない大都会という意味なのかもしれない。O市を忌避された次に私が引っ越し先として考えたのは、首都圏からの移住者の多い道南の伊達市で、シュタイナー関係のひとたちがいるところだった。下見をしたが、移住の失敗例がそれなりにあり(報道などでは言われない。北海道の湘南なんてもてはやされていた時期もあった)、交通の便も悪かった。

 

今は横浜を出たことは後悔していない。Sでの閉塞した生活が限界に達して、母と別居することもできたし、さらに最近ふと思ったのは、2008年に、お宅に行ったときに、Fatherが漆塗りのお重をあげます、お正月に横浜にこれを食べに行きますから、と言ったのを、そんな高価なものをもらっては母に叱られますと、母を口実に断ったのだったが。それも今になってみると、パズルのピースの一片のように思い出されたりする。

 

まだ横浜にいるころだったか、FatherはOの家を処分して、どこかにマンションを借りようとしたが、老人が借り手では死亡などの迷惑物件になる可能性があって困るので、知り合いにも断れられた、1年分の前払いでもダメなのだと、そういえば言っていた。

 

書かれたことは、話と異なり、相手の顔を見て調整できないので、致命的なこともあり、はっきりと書いてしまうことは、できるだけこれまで避けてきた。また、おともだちとの関係を継続していくのなら、やはりそこは言い過ぎないことも大事だろう、親族の批判はできるだけ控えようと思っていた。

 

もうひとつ、それだけではない。こちらが重要だが、それを書いてしまうと、その方面の絆が切れてしまう危険があり、ただでさえ、いろんなつながり(ミクシーとか友人とか)がなくなってしまっている、お友達を、極端な行動に追い詰めてしまうのではという、私の不安もあったのである。

 

しかし、今は思う。私もさんざんいろんな情報や予感に振り回されてきたが、これまで書いてきたことは、すべて「事実」であって、それを「知って」行動することと、「知らずに」行動することとは違うと思うのである。それがすぐに絆断交になることにつながらないかもしれないし、「腹芸」ということばもある。情報を持っているほうが、優位に立てることになる。

 

肝心なのは、本当に信頼できる相手は誰か、ということだ。

 

おともだちが、ときどき、私に嘘をついたり隠していることがあることもわかっているが、それはだいたい、そんなに重要なことではない。そして、これまでを振り返ると、

もう古いことでよく覚えていないが、R君が私のことで虚実とりまぜの何かを誹謗中傷していたことなど、重要な局面ではいつも私にはっきりと言ってくれたことを、私はとても感謝している。(Rは今はもうまったく関係ないが、2009年だか10年のお正月に「もう別れたんでしょう」とかいって、叙階式にきてくれとか電話してきたので、

おともだちに私のことをこう云っていたんでしょ、と言うと、話したんですか、と驚いていたから、相手は病人なので、言うことに気をつけるべきなのに。あなたを許さない、と言って、絶交した。)

 

重要なことではなかったのは、N堂のNくんと草津翁の伝記のことでやりとりしていたなかで、おともだちの話もいろいろ出て、彼とおともだちも手紙のやりとりがずっとあったが、断交して、そのあとはT村さんとつながっている、といって、私には初耳の話だった。なぜ隠していたのだろうと思った。

 

が、N君もT村さんも、私にはどうてもいいひとたちだし、N君のなかにも、なにか不遇ゆえのものすごい野心、自己顕示の過剰を感じて、うんざりした。普通の世界では構わないことなのだが、宗教界で「ひと旗あげる」という意識(本人はそう思っていないだろうけど)は、不純であり、そんなことでは、ひとはついてこないと感じた。

 

亡くなったひとを悪くいいたくないが、トロ氏もmonasteryのひとは悲劇の刻印(病気、エグザイル)を帯びた聖人扱いだが、私は昔から感じていたことだが、彼がまことの、本当にpiousでhumbleな正教徒だったら、彼の周りで、おのずと正教徒がでてくるような感化を及ぼしていたのではないかと感じる。

 

だから、彼のことを調べだすと、悪く言うひとが多くて、かなり驚いたものだったが、反面納得もした。しかし、人間はいいところもわるいところもあって当たり前だし、毀誉褒貶があるのが人間というものだ。しかし今考えると、彼の欠点は社会性のなさだったりして、稚気愛すべしというものだったかもしれない、と思う。

 

私は天皇発言断交以来、電話も何回かしたが、結局、なんだか皮肉な受け答えが多く、

日本を去ることも知らなかったし、向こうも私が、これまで自分に冷たくしてきた世間のひとと所詮一緒という印象を持っていたのではないかと思う。

 

極端な発言をしたのは、その93年ごろは、私が例のカトリックカルトと関係していて、精神状態が不安定だったことも、今振り返ると、大きな原因と感じる。悪かったと思うし、もっと言いようがあったと思ったり。「(日本人じゃない)あなたにそんなことを言われたくない」と電話を切ったわけだったが、のちに知ったが、彼は実は国籍を取得して日本人になっていたわけだったし、そもそも国籍以前に、日本を去りがたいと思っているほどある意味「日本人」でもあった彼に、それを言うべきではなかった。あとの祭りだが。もう一度帰ってくると家はそのまま、書類等も置いていった、慌ただしい旅立ちだったというのに。

 

(アメリカからの丁寧なお迎えはありがたかっただろうが、クールに考えると、障害のある一老人にそれだけの親切というのも、キリスト教精神というより、持参金のゆえもあるかもしれない。

 

そういえば、彼について論文を書いてそれなりに亡命露人研究で名を挙げた埼玉大のS教授とのあいだに、預けた資料を返してもらってないという係争があったし(事実はどちらか不明)、また、出立間際に、やはり荷物の件で、K温泉では評判の悪い患者Sさんだったかのあいだで、持って行った、持っていかないとかで、トラブルがあったときいたのを思い出した。これも老人ゆえの思い違いか、それとも誰かの悪意ある行為だったのか、今となってはわからない。)

 

へんなひとではあったが、こころは優しいひとだったので、私の発言が「世間並みに」彼を傷つけたという後悔は今でもある。

 

思えば、私の若いときに知り合ってから、彼はいつでも「そこにいて」、気がむけば

電話することのできる存在であった。なんの都合もほとんどない境涯であったから、いつも「そこにいる」ことが当たり前の。

 

もう使われていない彼の電話番号に、二度ほど、電話をかけてみたことがある。

「この電話は使われていません。番号をおたしかめください」というアナウンスが流れる。まさか、霊界につながるなどと思っているわけではないし、もはやあの「光の家」

で電話機が主もいないのに鳴っているわけでもない(家自体がないのだし)のだが、そんなことをしてみたことがある。

 

ツーツーと鳴るコール音に耳を傾けていると、あの懐かしい、すっぽりと樹木に覆われた古い家に通じるような、そんな気がするのだ。そんなことをするのは決まって夜だから、闇のなか、深い森へ電話しているような。

 

(あの家が、もともと英国人女性宣教師の家だったことを古い領収書などから発見したのは私だが、ミス・リーの家が「光の家」という名前だったこともなにか象徴的でもある。)

 

アメリカに足の手術で行っていた2002年かそれぐらいのころ、不在の家の電話が他の元患者さん宅に転送されていて、アメリカ、ミシシッピだかルイジアナだかの、病院の、受けることだけができる、病室の電話番号を知らされた。結局、「避けられているし」と思っているうちにそのままになってしまったが。

 

彼は、いつも皆からの電話を待っていたのかもしれない。