孤高の人

八重桜が終わり、ハナミズキの満開も終わりに近づき、サツキの花がどんどん開花している。ケヤキの新緑も勢いを増す今日このごろ。

 

ベランダから見下ろすと、アカツメクサが咲いて、地面の上には八重桜の花びらがいちめんに散っている。

 

ダウンコートを受け取りにクリーニング屋へ行き、図書館で予約してあった本を借り出し、さらに新着図書を2冊借りた。一冊は、民俗学者宮本常一が四国の在所で出会った放浪の馬喰の物語として有名な「土佐源氏」の虚実というか、背景の話のようだ。

 

ぱらぱらとめくってみると、宮本は周防大島、つまり山口の出身だが、昔はハンセン病の患者は故郷を離れて、四国を遍路としてさすらったということが書いてあった。たしかに、四国遍路にはハンセン病の患者が少なからずいたということは聞いたことがある。だいたい行路病者として亡くなった。

 

録画してあった、小笠原登についての番組を見た。小笠原は京大病院の皮膚科の医者で、僧侶でもあるが、ハンセン病について当時から独自の見解をもっていて、ライ菌は感染力が弱く、ゆえに隔離する必要はなく、むしろ発症いかんは、患者の体質によるという考え方で、治療をおこなっていた。大風子油による治療と食事療法である。

 

が、やがて、戦争が近づくころ、西欧列強に伍して近代国家の体裁を整えるためには、患者の隔離が必須という学会、行政の見解でライ予防法が成立し、強制隔離の歴史が始まり、隔離政策に異を唱える彼は学会でも論難され、異端者となってしまった。

 

今回の番組は、彼の生家であり亡くなったところでもある愛知県の寺で、小笠原の日記が発見されたことから、制作されたようだ。日記には今まで知られなかった、「ライ予防法」下での、彼の秘密の診療などが記されている。

 

彼は、カルテなどから明らかにハンセン病の症状を示している患者にも、診断名は多発性神経炎とか書くようにして、在宅で治療が可能なようにしていた。

 

京大を退官後、豊橋の国立病院に勤務したが、そこでも、官舎でひそかに患者を診療して、療養所送りにならないようにしていたという。週末は実家の寺で、患者をみていたという。

 

京大病院時代でも、軽症でない、明らかに外貌でわかる患者は、入院させて治療をしていたというが、これは強制隔離の歴史がまだ浅い時代の話ではあるが、それでも稀有なことであったらしい。

 

しかし、豊橋では結局秘密の診療は知られるところになり、やめるように言われ、依願退職。その無念の思いが日記に綴られている。豊橋時代の同僚は、「孤高のひと」と証言していた。

 

興味深いのは、そもそも皮膚病研究の道を選んだのは、祖父である住職が蘭方や和方をおさめた医師でもあって、寺のなかに患者の宿泊所をつくり、患者たちは本堂で囲碁をうったり、と、そうした光景を見ながら育ったことにあるらしい、という。

 

強制隔離の提唱者、「救癩の父」と呼ばれ、小笠原を学会で激しく糾弾した光田健輔が、功なり名遂げて、引退にあたり、総理大臣から感謝状を奉呈されているという映像も出ていたが、岸信介総理の長い顔がうつっていた。

 

小笠原の事跡はこの分野に関心があるひと以外にはあまり知られていなかったし、これまでは光田が褒め称えられていたわけだが、国家賠償訴訟の患者側勝訴のあたりから、

光田を批判する声が大きくなってきたような印象がある。最近ではむしろボロクソの言われようである。

 

たしかに過去には行路病者として死ぬしかないような境遇があったわけで、衣食住と治療を保証することはある意味では救済であっただろうけれど、光田の言葉のなかに、「浄化」とか、「汚染」という語彙があるように、そうした思想の持ち主であったのだろう。

 

ショックだったのは、プロミンができて、治療ができるようになった戦後でさえ、光田の鶴の一声で、ライ予防法は改正され存続(廃止を唱えた厚生官僚もいたのに)、

戦後でさえも、発病すると、強制収容されたひとがいたことだ。(そういえば、草津翁が診断・収容されたのも戦後だった…)

 

その、昭和28年成立の「改正ライ予防法」の条文が映像で映ったが、裕仁という署名と国璽がしっかりと押され、吉田茂のサインが傍にあった。

 

去年K温泉にいったとき、宿のひとから、療養所を出た人々は遠くにいくのでなく、案外この街に住んでいるのだ、ということを聞いた。「あそこにあったお花屋さんとか…」と言っていた。この街に住んでいるのではないのだけれど、有名なプロスポーツ選手の女性も、両親が療養所出身なのだと聞いて驚いた。美人で有名なひとである。

 

宿のひといわく、不思議な病気だと思う。この親からどうしてと思うような子供が生まれていたり、その子は健常児でも、そのまた子供に問題(この病気かどうかは知らないが)があったりするのだという。その口ぶりは、まるで因縁説のようでもあった。

 

が、70年代の免疫学の発展で、ライ菌の感染力は微弱で、発症は、一種の免疫異常が突発的に起こるものであり、機序としては、花粉症などのアレルギーに似た、広義の免疫疾患に近いということである。

 

小笠原はある日訪ねてきて、この病気に対する診療の信念を問うた学生に、一言「平凡」と答えたという。「孤高の人」にふさわしい返事。

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