Beauty

桜もやや開花したら早速寒くなり、まだチラホラ咲きというところ。一昨日は、ボッティチェリ展の終わりも近いので、頑張って上野に出かけた。

 

ボッティチェリを中心に師のフィリッポ・リッピ、リッピの息子でボッティチェリの弟子筋にあたる、フィリッピーノ・リッピの作品を中心に、かなりの数のテンペラや素描が展示されている。数だけではなんともいえないが、世界中のボッティチェリ真筆の4分の一が今東京に集まっているとか、どこかに書かれていた。

 

私は、ずっと、なぜ彼の作品が途中で大きく変化してしまったのかにずっと興味があったのだが、それは彼個人というよりは、フィレンツェ全体がサヴォナローラの影響などで悔悛や凋落の意識に取り憑かれてしまった、社会的、時代的なものなのだろうという印象を今回強く持った。

 

ボッティチェリというより、今回は、弟子のフィリッピーノ・リッピにむしろ魅せられた。なかでも、聖母子と天使、聖ヨハネを描いた「トンド・コルシーニ」。コルシーニ家のトンドと通称で呼ばれる作品。

http://www.toscanaoggi.it/layout/set/print/TV-Media/Foto/Mostra-su-Piero-di-Cosimo/Filippino-Lippi-Madonna-Tondo-Corsini

 

トンドとは、円形の画面に人物を配する、ボッティチェリでもおなじみのあの構図。

 

フィリッピーノのこの作品は実に美しく、ボッティチェリより線描が軽やかで、見飽きない。一番左の天使などは、ラファエル前派のある画家の雰囲気にとても似ていたりする。雄勁と言われるボッティチェリの線は硬くて、いまひとつ好みでないところもあるので、こちらに感嘆した。

 

何より興味深く思ったのは、この絵のタイトルに聖ヨハネがあるのに、どこにも見えないことである。よくよく見たら、右手の列柱のところに、小さな人物が透き通るみたいに描かれている。これがヨハネか?

 

まるであとから申し訳程度に書き加えたとしか思えない、この奇妙なヨハネは、司教冠か教皇冠みたいなものをかぶっていて、半裸で、赤い衣を申し訳程度につけている。

 

通常、洗礼者ヨハネをこうして描くことはまずないと思うので、これは画題として定式を踏んだ上で(あるいは装って)、ヨハネに仮託して、教皇やあるいは司教というものを描いたのかもしれない、と感じた。

 

この絵を実際に見ると、水盤の上からの水のしたたりが、紗幕のように繊細に描かれていて、驚く。キラキラ光っていて、生きているようで、特撮で捉えた一瞬の「生ける水」のようである。

 

この奇妙な構図から、洗礼を授ける「権威」は遠のき、天の使いたちから直接、水を受けたり、コンタクトをとる、といった、テーマが隠されているのかもしれないと感じた。

 

フィリッピーノの父、フィリッポ・リッピは画才で知られた修道僧であっただけでなく、情熱家で、修道女と恋に落ちて生まれたのが、フィリッピーノであることは有名だ。

 

教皇に息子や娘がいたりするので珍しいことではなかったが、フィリッピーノのなかにもおそらくその出自から、規格外でおさまらない、あるいは、何かの予見力のようなものがあったのかもしれない。その予感を、美しく、技巧をもって封じ込めているところが、感嘆するところだ。

 

ボッティチェリは雄勁で哲学的であり、フィリッピーノは美しいが内容はあまりないといった評価が当時は一般的だったようだが、案外それにとどまらない、預言者だったのかもしれない。

 

ボッティチェリだって、ラファエル前派が「発見」するまでは、400年ぐらい、無名のひと、だったわけだから。