書籍の整理

指先がひどく荒れてひび割れたりしているので、どうしたのだろうと思っていたが、要らない本を処分するために整理をしているからだと思う。

 

処分する本を箱詰めにして、引き取りにくるまで、2、3日かかって、新たに加えたり、救済したりを繰り返す。そのあいだに、自分にとって何が必要で何が要らないかが

はっきりしてくる。

 

鷲巣繁男の伝記は処分品のなかに入っていたのだが、付箋をはがすために開けてみたら、案外読みふけってしまった。大部の伝記なので最初から読んでいたときは息切れして、散漫に読んでいたようだ。

 

私自身は、鷲巣はむやみと凝った高踏派的な詩をかくひとという印象があり、その独学の博識ぶりも半ば神話化している感じも持っていたのだった。

 

今回ぱらぱら拾い読みをしてみると、彼がキリスト教の信仰に傾倒を深めていったのはむしろ40代以降で、いわゆる異端の説に親しんでおり、初代教会からいくつかの公会議等の歴史を通して、そのなかで斥けられたものと正統の軋轢を、自分自身の信仰上の葛藤と重ね合わせて見ていることが印象的だ。今回発見して新鮮な驚きを感じた。

 

私自身も、同じことを常々感じていた。私にとって、異端や公会議上の論争は、自分のこころのなかでも常におこっているものとパラレルであり、単なる、学問的な、外にあるものではなかったからだ。

 

かくして「詩人」は私にとって身近な存在となった。

 

70年代、埼玉に引っ越してから書かれた長文のエッセイから引用;

 

「与へられたものとしてのキリスト教は二千年を経過した。しかし信仰は本来創造的なものであり、ただ知識的に教へられて得るものではない。故に、もし信仰への知識を得るとしても、それはまづ、その成立に於ける苦闘を現在に引き寄せ自らの中に体験として生きることによってのみそれが信仰となるのである。オーソドクシイと異端・グノーシスとの精神の緊張と運動を知ることによって信仰の源泉に接し得るのである。」

 

さらに;

「マルキオンもアリウスも、ネストリウスもはた又マーニーも、ただ単に過去の異端として数行の教会史の中に埋没し去ってよいのだろうかーーと思ふのである。それらの或るものは脈々として現代の思潮の中に変容して生き続けてゐる筈である。あるひは人は、わたしが、余りにも専門的なことを口にするといって非難するかもしれない。しかしわたしは専門的なものを詩・文学の材料にしたりするのにはむしろ反対な人間である。(中略)たとえば今私の座右にある『パウロ教派の源流と展開』といふコロムビア大学の近・中東研究の一冊は、本そのものはたしかに高度の研究であるとしても、パウロ教といふ主題は、やがて、この国に於いても、知的で真摯な人々の常識になっていくと思へるのである。なぜならば、最近漸く名を知られるに至つた南仏カタリ派などの異端の歴史とその在りやうが、若い人々の関心となってゐることを仄聞するからである。」

 

カタリ派などは、私が20代のころ、結構脚光を浴びて翻訳なども出ていたような記憶があるから、「若い人々云々」のフレーズと時代的にも合致する。

 

ただ、「パウロ教」というのは初めて聞いた。今のキリスト教が畢竟「パウロ教」であるといった言い方の「パウロ教」とは違う。

 

パウロ教とはアルメニアで起こった異端で、ボゴミル派に影響を与えた。キリスト養子説を奉じ、のちには、マニ教二元論に移行。Paulcians。