降誕祭

まだまだ本格的な寒さになっていないお正月。今日はドアのお飾りをはずし、朝、七草がゆを食べた。今日の夜からは寒さが厳しくなるらしい。

 

今日はユリウス暦の降誕祭。一足早く、馬小屋は片付けてしまったが。日本の正教会も最近はグレゴリオ暦ユリウス暦と二回祝っているようだが、もとはきっと外国人信徒のためだったのかもしれないが、二回というのは多少違和感がある。どちらかにすればよいのに。露暦がいいというひとはポドヴォリエにいけばいいわけだし。復活祭を二回やったらおかしいのと同じではないか、と思ったり。

 

まあでも、お正月も小正月とか、旧正月とかいろいろあるのと同じかもしれない。

 

クリスマスにちなむ大木惇夫の詩の冒頭を読んだ。擬古文風というか新体詩風というか美しい。キリストの生涯を詩で描く「キリスト詩伝」である。遺作は「釈尊詩伝」なのだという。どちらもきちんと読んでみたいものだ。

 

たまたまだが、私の卒業した中学の校歌はこの詩人の作で、名前が印象に残っていたのであった。

 

文語体の聖書も思い出させるが、ルツやダビデをひいて邑の由来を述べるところなど、

絵画的で、ひとむかし前は、日本語もこのように綺麗だったのだなあ…と。

 

 

 

そは古(むかし)、二千載(ざい)をもさかのぼる

十二月二十五日のことなりき、

ユダヤなるベツレヘムてふ邑(むら)ざとに

いとどしき不思議の兆(しるし)あらはれぬ。

ベツレヘム、こは大昔 かのルツが

麦畑(むぎばた)に落ち穂ひろひし田舎なり、

またのちに 羊飼ひより身を起こし

若うして歌と剣の王たりし

美しきダビデの生まれ故郷にて、

この故に<ダビデの邑>と呼ばれたり。

邑外(むらはず)れ、橄欖(かんらん)・葡萄(ぶだう)の木は茂り

無花果もゆたかに生(な)りし古き里、

星の夜(よ)に 羊飼ひらは野宿(のじゅく)して

群れをなす羊を守りありけるが

たちまちに射しそふ光かがやかに

牧草(まきぐさ)はとみに明かりぬ、そぞろぎぬ。

をののきて御空(みそら)を瞻(み)れば、こはいかに、

浄(きよ)らなる栄光のうち、しづしづと

天使(みつかひ)は降(くだ)りきたりて告げましぬ。

 「懼(おそ)れざれ、なんぢらがため

  喜びの音信(おとづれ)あり、

  視(み)よや 、かのダビデの邑に

  <救主(すくひぬし)>生れたまへり、

  そは主(しゅ)なるキリストぞかし。

  嬰児(みどりご)の布につつまれ    

  馬槽(うまぶね)に臥(ふ)したるを見ば、

  何よりの証(あか)しぞと知れ。」

つぎつぎに天人群れて加はりて

星くづをちりばめ織りしかと見ゆる

裾長き衣(ころも)をひきて みやびかに

金色(こんじき)の光のごとく翼うち、

ひざまづき、その嬰児を伏し拝み

つくづくと神を崇めつつ 讃へつつ

天使(みつかひ)のことを人らに語りしが

聞く者はこれを怪しみ いぶかりぬ、

ただ<母>のマリヤは深くうなづきて

過ぎし日の不思議を思ひめぐらしぬ。ーー

 

「キリスト詩伝」第一部 序章

 

 

 

 

 

 

 

 

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