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戦争の夏

ここ2、3日、ほんのほんのわずかだけど、朝晩がしのぎやすくなった。朝起きて窓を開けたり、新聞をとりに降りると、空気が一瞬ひんやりと感じる。といっても、そのあとはぐんぐん気温があがり、熱中症での救急搬送はうなぎのぼり。

 

しかし、毎日中継されている甲子園だが、あのカンカン照りのフィールドで、球児たちは熱中症にならないのだろうか? 野球の練習中に熱中症になる例は結構あるから、

甲子園出場の場合は、気合が違っているということなのだろうか。気合だけで乗り切れるものでもないと思うのだが、とても不思議だ。

 

連日テレビは戦争関連の番組やドラマが多く、不謹慎だが、国民服を見ただけで、テレビを切ってしまう、私は不心得者である。こう沢山見せられると、精神的に疲れてしまうのだ。どうしても見るべき検証番組の類は録画して昼間に見る。

 

ふと、ずっとずっと昔、私が20代前半、Y教授の還暦だったかの祝賀会での事件を思い出した。というのも、先日海軍モノで有名な作家の阿川弘之が亡くなったが、その追悼記事を見ていたら、阿川氏の文学上の師は志賀直哉だったそうだが、その志賀の評伝を書くにあたっても一切の妥協をせず、志賀直哉の「徴兵逃れ」のことを書いたほどの、頑固一徹振りだったのだという。

 

志賀直哉は親友の柳宗悦に頼んで、柳の親戚の陸軍病院(当時は衛戍病院といった)の院長に、重度の難聴であるという診断書を書いてもらい、兵役を逃れたのだとか。初めて知ったエピソードだった。

 

Y教授は私の属する専攻の主任教授だったわけだが、祝賀会の宴たけなわ、お祝いのスピーチが続くなか、いささか酔っぱらった学友が、「Y君、きみが今日あるのはひとえに優秀な同級生が皆戦争で死んだからだ…」という爆弾スピーチを始めて、慌てた周囲のひとびとになだめられるように、壇上から降りさせられた、そんな事件があった。

 

誰も今ではその事件を覚えていないようだが、私は、Y教授がいささか得意げに、自分は軍事教練で指揮をとっていたものだ、と授業中に思い出ばなしをしたのを覚えていた。陸上の選手で運動が得意だったからだろうが、そんな人が徴兵されなかったのは不思議である。徴兵のがれをしたという話をどこかで聞いたような気がする。そして、Y教授の夫人は志賀直哉の娘さんなので、そうなると義理の関係だが、二代にわたって、徴兵のがれをした、ということになる。

 

あるいは何か事情があったのかもしれないが、いずれにせよ、一部特権階級の子弟は、コネを使ってこういうことができたようである。テレビで鶴見俊輔氏を回顧する番組を見ていたら、氏がアメリカから戦時交換船で帰って来たその12月、その年最後の徴兵検査があって、合格となってしまい、政治家の父親は慌てて、土地を買ってやるから彼女と一緒に養蜂でもやれ、と言ったのを断って、軍属となって、インドネシアへ渡ったということを言っていた。通信文の翻訳とかそういったことを彼の地でやっていた。

 

養蜂家になったからといって、兵役を逃れることができたのかはよくわからないが、

前線に駆り出されるのは庶民ばかりで、指導層の子弟はこのていたらく、であった。

敵味方問わず、戦争そのものが常に政治家や外交官など、指導層の利益で創り出されるものといっていいから、馬鹿らしいものではあるのだが、命を失うのは庶民ばかり、という理不尽さである。

 

鶴見氏が軍属になったのは、人を殺したくないから、という理由であり、そうした状況になったら、青酸カリを飲んで死ぬつもりだったというから、それはそれでまだ納得できるところもあるし、開戦時に米国の側につくかと問われてノーと言ったので、アナーキストであるという罪状のもと、アメリカの収容所(監獄?)に入れられ、卒論とかもそこで書いたわけだが、どんな監獄かは知らないが、コックがイタリア人で御飯が(監獄にしては)美味しくて、そのままそこに居続けるのがだんだん気持ちの負担になり、交換船で帰国したのだという。

 

もしアメリカにとどまっていれば、自分はおそらくアメリカ人と結婚して、それなりのポストを大学に得てやっていっただろうが、そんな自分が「戦後の日本」に帰国することを考えると、なんともいえない気持ちになったと語っていた。

 

戦後、スタンフォード大学助教授のポストのオファーがあって、学長の許可なども得て、すべて整っていたのだが、最終的には、氏が原水爆禁止運動に署名したという点をもって、神戸の総領事館がヴィザを出さなかったのだという話しもこの番組で知ったことである。

 

その後、鶴見氏はベ平連を創設し、セクトや党派に無関係の市民個人の戦争反対運動の立役者となったわけだが、イントレピッドからの脱走兵をかくまった話などは、氏から直接に詳しく聞いたことがある。

 

そのときは、「ふーん」という感じであまりリアルにも思わなかったが、この番組を見ていたら、鶴見夫人が心臓が悪いのは、この時からなのだという。たしかに、同盟国の脱走兵をかくまうということは、大変なことであり、命がけの勇気ある行動だったのだ、と改めて思った。

 

その詳しい経緯を書いた本を持っていたのだけど、東京を引き払うときに売ってしまって、買い戻そうと思ったら、とても高価になってしまっていて、残念だった。

 

誰もとくには言わないけれど、このひとの話し方は、昔の東京弁、山の手の発音だと私は感じる。こういうふうな、ちょっと綺麗な軽やかな発声をするひとは、もう最後なんだろうなあ…。最後まで英語のほうがラクそうだったけど。   RIP

 

 

 

 

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