猫とネズミ

今年は梅雨の割には長雨があまりない。西日本、とくに九州では大雨の被害がひどいらしいが、反対に北日本では極端に雨が少なくて、稲も野菜も危機的なところが少なからずあるらしい。

 

この梅雨空に、神戸の連続殺人事件の犯人が、本を出版して、騒ぎになっている。出版社及び出版界が腐っているのはこれ以前に自明だが、それにしても、初版10万部が数日にして完売、現在二刷中という。こういう経緯のある本を買う人間が沢山いるという事実が、今の日本の異常さをあらわしていると思う。

 

日本もアメリカの「サムの息子」法のようなものを導入すべきだという声もあがっていて、それは検討したらよいだろうと思う。実際、少なからぬ「犯人」がこれまでも「自分」を本のかたちで語っているからだ。

 

もちろん私は神戸事件の犯人の本を読んでいないが、週刊誌を見ていて、ちょっとした発見があった。というのは、三島由紀夫の友人、ストークス氏の伝記「Life and Death of Yukio Mishima」の翻訳をしたジャーナリストのT氏が、この件について怒って語っていた。

 

氏はもちろん読んでいないと断った上で、出版社とこの元「少年」を批判し、最後に、決然たる態度を、メディアの受け手側、すなわち私たちもとるべきだ、と書いていた。

 

それは、氏が、かつて三島の原作「午後の曳航」を映画化した作品をニューヨークで見たとき、あるシーンで初老の女性が憤然と席を蹴って足音高く出て行ったのだという。怪しからぬものに対してはそういう断固たる態度が必要だ、という主旨で氏は書いていたのだが、そのシーンというのは、猫の解剖シーンのはじまりの部分。

 

この映画は、原作の横浜山手地区をイギリス南部の海岸地方か何かに場所をうつし、すべてイギリスに置き換えてつくられている。私は原作も映画も見ていないのだが、原作にも解剖シーンがあるらしく、映画のほうも、忠実にそれを再現していると氏は言っている。

 

読んでいないし、また、気持ちの悪いものは読みたくないので、実は検証したいとは思うが、原作も読むつもりはない。ただ、原作の描写がどの程度で、おそらくは少年達がそれをおこなうのだろうけれど、T氏の意図とは離れて、私は三島自身について、「やっぱりなあ…」と思ったのだった。

 

「午後の曳航」のことも、神戸事件も、どちらも、これまでは両者が結びつくものではなかったのだが。(ネット上では有名な結びつきだったようだが…)

 

神戸の犯人が「曳航」に影響を受けたとかそういうことではなく、神戸のAの動機が「性衝動」「性的サディズム」として語られているように、三島も、このカテゴリーに入るひとなんだな、と思い至ったのであった。

 

幼少時の「おわい屋」の姿に興奮を覚えたとか、これも異様な話だし、セバスティアンの殉教図を見て性的に恍惚となっていたというのも、まさしく、それである。だから、「自分は異常ではないか、診察して欲しい」と精神科医の式場隆三郎に依頼して断られたというのも、一般には同性愛問題と思われているが、この「サディズム」というか、混合型の「サドコ・マゾヒズム」のことだったのではないか。

 

フロイトを持ち出すまでもなく、エロスとタナトスというのは、結びついているのだろうが、普通のひとには、性衝動と殺人衝動の合体はわかるようで、わかりにくい。(三島の「自裁」というのも、結局は自分に向かった「殺人」といえる)

 

三島が少年達の残酷さをあらわすのに、どこかから猫の話を借りてきた、つまり、類似の事件があったのなら、それの流用かもしれないが、そうでなかった場合、猫の解剖ということを「思いつく」こと自体、A等の類似の少年犯罪では、まず最初は「殺し」の衝動が小動物に向かっている、ことときわめて似ている。

 

三島はああいった亡くなり方をしたために、英雄視される向きもあるし、今も本が売れ続けているのはその故でもあるだろう。彼の問題提起した天皇制とか国防の問題はそれはそれとしてあるが、そもそもの衝動の根源には、こうした死を志向する性衝動がやみがたくあったのでは、と今回思った。

 

それはどこから来たのかは分からないが、三島の母から三島は取り上げられて、幼少時、歌舞伎や文学好きの病身な祖母の暗い部屋で育てられたことから、きているのかもしれない。

 

日本の古典芸能は、歌舞伎にしても文楽にしても、「死」が頻出し、ドロドロしている。そういう世界は私は嫌いなので、文楽も歌舞伎も面白いとは思わない。が、生まれ落ちての最初の世界がそこであったら…。皮膚感覚として刷り込まれるだろう。

 

それにしても、「午後の曳航」は日本でも公開されたのに、猫のシーンが問題になったとかという記憶はない…。ニューヨークのおばさんの一人もいなかったのか。

 

ウチの「猫が原」の猫達の「狩り」にはしばらく慣れることができなかったが、彼らの「狩り」は生きるためのもの。朝日にきらめく灰色のビニールを見て溜め息をついていたが、最近は、成果が落ちていない日はそれはそれで、大丈夫かと思ったりもする日々。

 

 

 

 

 

 

 

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