猫たちの狩り+久々の地震

以下を朝書いて、午後から隣のターミナル駅の銀行へ出かけた。ついでにデパートに寄って靴売り場にいたら、突然、激しく靴の棚が揺れて、地震警報が館内に響き渡った。停電になると困るので、エントランス近くまで歩き、その頃には収まったが、震度4という久々の揺れでちょっと慌てた。

 

帰宅したら、本棚の本が落ちたのではと気になったが、本一冊も落ちておらず、胸をなで下ろす。横浜で東日本大震災に遭遇したときも、震度は5だったが、本が一冊落ちたぐらいだった。耐震構造であることと、低層階だとやはり安心だなあ、と。今晩は、非常用リュックを再度点検しよう。

 

強い揺れだったにもかかわらず、電車等への影響はあまりなかったようだ。

 

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梅雨入り前なのに、夏のような気温が続いている。猫が原の草も伸びた。猫が原と言えば、自分の認識不足で、ときどきそこにどこかから風で飛んで来たようなビニールぶくろのようなものを猫たちが舐めていて、よっぽどお腹を空かしているんだなあ、と気の毒に思っていたのだが、そうではなかったようだ。

 

餌付けを禁止されているのに、痩せてはいても、何を食べているのだろうと思っていたのだが、最近、二匹が舐めて立ち去ると、鳥が6匹ほど即座にやってきて、ちょっと綺麗な鳥なのだが、ついばんでいるようだった。

 

つまり、私が遠目にビニールだと思っていたのは、猫たちの餌の残骸というか、狩りの成果の残りだったようだ。眼が悪いので見えなくて幸いだった。

 

昨日も狩りがあったようで、急に鳥達が騒がしくなって、カラスまでやってきた。カラスはなぜか昨秋にはヒッチコックの「鳥」みたいに空が暗くなるほど群れをなして夕方旋回していたのが、ぱったりいなくなった。いなくて幸いではあるが。

 

考えてみると、飼い猫でなければ自前で餌を調達しなければならず、自然のなかで生きる、というのはそういうことなのだな、と。

 

T翁のことを調べに療養所に二度ほど以前行ったわけだが、なるほどあそこの生活は保護されていて、病気のケアもあり、生活の保障も国がしている。が、皆がそれに甘んじたかといういうと、外で生きることを選んだひとも少数だがいたようだ。私が聞いたのは、音楽の写譜を仕事にして外の世界へ出たひとの話だった。名前は厳重に伏せられている。ありふれた名字でも家族に迷惑がかかるからのようだ。

 

T翁は残されたものを見ると、「武士道」といった短い話を書いていたり(これは英語)、ロシア人らしい幽霊話やら動物の話があったりする。英字紙のエディターに手紙を送ったり、ロシア革命の論文を書いたりしていたわけだから、文筆の道に志していたのかもしれない。小話的なものはちょっとした短篇作家ぐらいの才能はある感じがする。

 

ただし、詩の会なども先生が来たときだけ参加するというふうで、あまり精進するタイプではなかったようで、若者とバイクで走り回ったり、という生活を好んでいたようだ。

 

つまり、生活が保障されていることは、自力で生きていこうという力を奪ってしまうということがいえる。彼の一家の事跡だって、彼が書き残せばよかったのだ。

 

私は二度行って、あそこの生活に不健全というか価値の転倒、もっと言えば倒錯を感じ、行きたくなくなったのだった。ボランティア団体や病の歴史に関心があり熱心に訪れるひとも多いようだが、公に言うとバッシングされるだろうが、あの環境には不健全なものを感じた。病の外形はむしろグロテスクではなく、精神や環境(スタッフも)のほうにそれを感じて、居心地が悪かった。

 

昔のように入所者の人権が侵害されるのは言語道断だが、今度は入所者がある意味力を振るっていて、職員は腫れ物にさわるような扱いである。が、本当に親切なのかというと、そうでもない感じもする。また、ちょっとコピーをとっていた事務室でも、若い女性の事務職員たちが、世話係の男性を苛めとまではいかないが、見下した態度をとっていて、感じのよくない雰囲気だった。

 

観光業も斜陽になったあの町では、園は稀な安定した雇用の場であるという事実。公務員に準じた扱いなのかもしれない。

 

また、入所者は衣食住は提供されていて、お小遣いも出ているようで、使うこともあまりないのだと思う。驚いたのは、日用品や野菜やお菓子などを売っている店があるのだが、値段がかなり高い。園内でこうやってお金が循環しているのだな…と複雑な気持ちになった。指定業者なのだろうか。

 

そんなこんなで気の滅入る園だったが、ひとりだけ、立派なひとに会った。あそこでは、写真集などを出していたりするスター詩人もいたりするのだが、T翁同様、虚像が一人歩きしているきらいがあるが、この老翁は、かつて病気の軽い時期は町の旅館などで家族ともども働いていたりして、外の世界もよく知っていたらしい。

 

朝は起きたら写経をするという敬虔な仏教徒で、私が話を聞いたときは高齢の上に病気でもあったが、気負いのない良い感じのひとだった。T翁を、「もっと真面目に詩を書け」と叱っていたりしたらしい。このひとの詩は、たまたまT翁関係の記事をコピーしたものを駅で読んでいたら、別のページにあったのだが、妻をうたった詩には思わず落涙させられた。

 

証言者としていろいろな記録も残しているが、T翁や他の詩人ほど知られてはいないだろう。私が二度目に訪ねたときは病気で会えなかったし、ほどなくその夏亡くなった。その前年、もっと話を聞く予定だったが、園の資料室でのコピーにかまけて、次回に先送りしてしまったことが悔やまれる。

 

淡々と生きて、非凡。 

 

急に園のことを思い出したのは、今の居住地近くの療養所も舞台になっている映画が、カンヌ映画祭に出品されていて、「日本」ではえらく騒がれていることだ。隣の市にあるので、全市を挙げて応援をしている。

 

が、この女性の監督なのだが、昔から、「えっ、これ素人じゃないの」と思えるほど、退屈な、長回しのショットや、撮影地の一般人を俳優にするので有名で、メディアではいつも騒がれているのだが、私にはとてもプロの作品とは思えないので、テレビでちょっと見る程度だった。

 

それが、去年だったかは、カンヌで審査員までやっている。まあ、カンヌというのは、フランス好みの気取った映画が賞をとるので「なんだかな」とは思っている映画祭なのだが、日本ではあのレッドカーペットはいつも大変なニュース。

 

この女性監督だが、昨日、たまたま見た海外記事では、やはりというべきか、この女性監督ばかり日本から出品されるのはおかしい、レプラの患者の話もカタルシスのために無理に入れた印象があり、必然性がないと、ボロクソに批判されていた。

 

映画界、とくに、日本のこうした映像関係にはきっといろいろウラがあるのだろう。

それにしても、まったく無名の若い女性だったこの監督の素人臭い作品がなぜあのようにもてはやされ、今や大御所のように言われているのか、そのウラは計りにくい。ピアニストの誰かのように、政治家の隠れ父親でもいたのか…とか考えてしまう。

 

メリトクラシー能力主義が機能しないのが、日本の一番ダメなところ。「かしこきあたり」がそもそもそういう存在だから、それがすべてに蔓延しているのかもしれない。

 

T翁について、過去自分が書いたものを読んでみると、不正確な部分も、また思い込みやドラマチックな粉飾もあり、恥ずかしくなってしまった。「遺品」というか写真や書類のたぐいはそう多くはないのだが、そうした資料があるのも気が重い。

 

義父の伝記を書くというカリフォルニアのコレクター氏であれば、二つ返事で引き取ってくれるだろうけれど、このひとは、初めてメールをよこすのに、山のような質問を書いてきたり、日本までリサーチに来るとか行ったので、以来音信は絶っているし、何かと面倒である。

 

T翁の「遺産」は実は、「天皇は…」というあの言葉、あれが最大のlegacyだったのかもしれない。