秩父

台風が先島あたりに接近していて、すでに風が強い。帽子が何度も飛びそうになる。

 

別件で買った2009年のある季刊誌を見ていた。その時は気づかなかったある連載のページに私の住んでいる沿線の鉄道と歴史的な経緯について書いてあるのが眼にとまった。近隣のハンセン病療養所の写真だ。まだ訪ねたことはないのだが。

 

写真は、大正天皇の后である貞明皇后の冥福を祈る入所者たちの後ろ姿。戸外の石碑のような前に並んでいるので、皇后の記念碑か何かなのだろうか。

 

まったくの農村地帯に1909年ハンセン病療養所が建てられて、その後、東京府立の結核療養所をはじめ、救世軍の療養所やら傷病軍人療養所などがつぎつぎに建てられて、今でもこの一帯には病院が多い。

 

連載記事の筆者は皇室関係の論考をユニークな切り口で書いているひと。貞明皇后が実は強固な戦争遂行論者だったこととか、いろいろ新事実を新聞などに書いていて、面白いなあ、とは思っていた。

 

この連載によると1947年1月24日に高松宮が療養所を訪問し、園内を回ったということだ(が、「高松宮日記」は同年1月5日から2月1日まで日付が飛んでいて当該日の記述はないとのこと)。

 

そして48年6月3日に貞明皇后(諡名なので存命中にこう呼ぶのはおかしいのだが)が蚕糸の現場視察の途上、療養所の前を「お車」にて通過、入所者たちは感涙の涙を流したとか。

 

私が興味を覚えたのはそのあとで、貞明はその翌日、秩父へ向かい、秩父神社に詣で、病床にあった秩父宮の快癒を祈ったのだそうだ。その後、51年に貞明は急死し、秩父宮も53年に死去。そして、秩父神社の祭神として秩父宮が合祀されたという。

 

10年ぐらい前に御殿場に行ったとき、秩父宮公園と現在なっている鬱蒼とした杉林に囲まれたカントリーハウスと言ってよいのか、広大な敷地にびっくりしたものだ。結核の療養のためで、家屋は比較的質素だが、とにかく敷地の広さと巨樹に驚いた。宮はここで陶芸などもやっていたという。

 

私がしきりに感じるのは、昭和史のキーマンというか、キーパーソンが貞明ではないかということ。息子達の父親が違うといった極論は措くとしても、昭和天皇と貞明はそりがあわず、秩父を偏愛したというのは、最近はまず定説になっていると思う。そして、根強くあるのが、昭和を排して、秩父を擁立しようという流れがあり、それが2.26に繋がった。その背景には、貞明の意向が見え隠れするといったような…。

 

この著者の書いた新書で今回初めて知ったのだが、あの松本清張の未完の遺作に「神々の乱心」という小説があるという。まったく知らなかった。大正末期に満州で日本人が起こした新興宗教の教祖が帰国して、埼玉県に本部を置き、宮中へ進出。そして三種の神器や特殊な鏡をそろえて、昭和天皇を廃するための行動を起こす、といった、何とも凄いストーリー。

 

未完なのでクーデターというところまで行っていないようだし、あくまでもフィクションのかたちをとっているが、実際に起きた島津ハル事件という、女官長であった人物が新興宗教と接触し、昭和天皇が早々に崩御するとか、高松を擁立すべきという霊言を語っていたというので、不敬罪で逮捕された事件があることは結構有名である。

 

その他にも、明治天皇と孫の昭和天皇の会食の献立表を振天府という日清戦争の戦利品を所蔵する建物の壁につり下げて、「えんみ」という陰陽道の呪術がおこなわれたとか(こういうことが想像で書けるとは思わないが)、驚きの内容である。

 

松本清張がこれを書いたのは1990年から92年にかけてで、20年来あたためていた構想だったということだ。2.26事件のリサーチをしていくうちに、隠された「下絵」のようなものを、独特のカンであぶりだしてきたのかもしれない。恐るべし。その頃には、まだ今程、史料が公開されていなかったらしいので、直観的なものであるようだ。

 

この推理小説の主な舞台は、皇居、秩父、吉野、足利、満州。実際に埼玉県は古墳や出土品も多く、三角縁神獣鏡なども出土している。この小説では、「鏡」が大きな役割を持っているらしく、溥儀が神鏡に強い執着とこだわりを持っていたという史実とあわせても興味深い。