四ツ谷で

昨日はひさびさに四ツ谷に行った。いつもながら土手の緑が青青として日光が燦々。家族づれなどがのんびり散歩をしていた。赤坂や銀座界隈がしばらく行かないとどんどん変わっているのに比べ、四ツ谷という街は小さいせいもありあまり変わらない。

 

見附交差点角の書店サンパウロが暗いので、改装か潰れたのかと思ったら、29日は昭和の日、祝日だった。が、二階の表ガラス面の片側から緑色のネットがだらんと下がって、工事中と思われても仕方がない。昔からここは大きいが何となく活気のない店ではあった。ネットでみると、福岡の姉妹店は売り上げ減少で大きく店舗を縮小しているらしい。

 

今朝も、電車を待っている駅で、女子大生なのか、女の子が二人授業の話をしていて、「あの授業、キリスト教が前提になっているから嫌だ。西洋史は面白いんだけど」とぼやいていたが、ミッション系の大学なのか。この女子学生たちは案外率直で、もっとインテリぶっていたりすれば教養として吸収しようとするのだろうけど、それがない分、正直だし、権威主義的でないところがよい。

 

今までは四ツ谷では必ずイグナチオ教会の売店に寄ったり、こうした本屋に寄ったものだったが、もはや私も通過するのみで、遠目に見ても、なんとなく形骸といった言葉がピッタリだ。若葉で鯛焼きを食べた。いつきてもここは混んでいる。鯛焼きの味は変わらず、熱々で美味しかった。若葉町と言えば、かつてポドボリエがあったが、それも移転したはず。

 

このところ国宝級の社寺に油のようなものがかけられる事件が京都奈良を中心に多発しているが、なんとなくだが、寺の元関係者かなあという気が最初はしていた。腐敗した仏教界に嫌悪を持つ元小僧さんとか(水上勉の「雁の寺」とかの連想)。この想像は小説的に過ぎるけれど。そういえば、横浜の山手聖公会に放火した外国人信徒というのも7、8年前にあったっけ。すぐ再建されたけれど。

 

既成宗教はどこも制度疲労を起こしている。神道界も同様。先日、大学のオープンカレッジに行ったけれども、講師自体が「神道万歳」みたいな姿勢で、神道と仏教の関わりと行っても、軸足がいささか偏っていた。しかし、いろいろ興味深い話もあった。神仏分離令前の鶴岡八幡宮は当然だが神仏習合で、神社部分は今と同じなのだが、仁王門、薬師堂、護摩堂、経蔵など仏堂塔がずらりと「境内」にある。24時間、護摩を焚いていた。しかし、逆はなく、仏のために神職祝詞をあげることはない。

 

分離令で25人いた坊さんは長髪にして神職に「転職」し、経典や仏像は払い下げられ(五島美術館とか浅草寺とか)、護摩壇などは廃棄された。が、今でも地方の神社に使い方が分からないまま、護摩壇がそのへんに押し込まれていたりということがあるという。

 

一番大きなネックは神事では生魚を供えるが、殺生戒のある坊さんたちは生魚がどうにも苦手で、木彫の魚代用なんていうこともあったとか。

 

神職はもともと専業は少なく、農業と兼業するかたちが多かったが、坊さんはそうではなかったから、お布施がなくなれば転職せざるを得なかったわけだ。

 

寺院の場合は祇園北野天満宮のように貴族の邸宅を払い下げということもあったが、神社は基本、新しく創建されるものだというのが大きな違い、ということだ。

 

先日ちょっと触れた聖書の教えをひそかに伝える不思議なひとびとの話だが、このかたちなき教団(ともいえない)の神様は個人個人にお告げをするようなのだが、基本、旧約の神が日本人を選択し(日ユ同祖論にも似ているが違うと思う)、数々の苦難を経て、神の国を実現させるというものなのだが、その神が仏教より神道にシンパシーを持っているのは面白いことだ。

 

哲学教授が若いとき戦地でたまたま出会った、コワモテ風のおじさんが、旧約聖書のとくに歴史書と預言書を知悉していてびっくり仰天の話からこの本は始まるのだが、にわかには信じられないようなことばかりなのだが、実際、旧約の構成というか、読みどころが非常によく私にも分かった。なかには、新約を教わっているひともいるそうで、本自体は「旧約篇」となっている。教授は2002年ぐらいにもう亡くなっているが、「彼ら」は教授に期待したが、信仰を持つことはなかったので、離れて行ったのだった。教授はいつか「新約篇」も書くかもしれない、と思っていたのだろうか。

 

教授だが、彼はもともと寺の生まれで、大学紛争の時に大学を辞めた。その後、対話集会というか今で言う哲学勉強会のようなことをやったり本を書いていたようだ。紛争で大学をやめ、在野のひととなった高橋巌先生などと似た感じだ。

 

私が驚いたのは、教団?の師匠格の孫にあたる青年と、教授が最後に交わした会話で、

「どうして君たちは世間に堂々と出て来ないのだ」という教授の問いに対して、青年が

「あなたは世間のほんとうの怖さというものを知らない」として、マタイの福音書の言葉を引き、「あなたがたの髪の毛までも皆数えられていると言われていますね。これは神について言われているわけですが、電算機を活用するこれからの管理社会にふさわしい言葉になろうとしている。政府や役所は私たちのことならなんでも知っている時代になろうとしているのに、それでも世間に対する態度を改めよと言うのですか」と迫るところである。

 

2015年の今なら、これは誰も驚かないが、この本は80年ジャストに出ているので、青年との会話は70年代終わりだろう。とすると、この聡明さと慧眼はどうか。本はアメリカと日本との関係にも触れているし、「人間的な義」と「歴史の義」についてもページが割かれている。歴史がまた違った観点から見えてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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