白桃の缶詰

昨日は、時ならぬ雪がこちらでも降って、底冷えのする寒さで、終日家に籠っていた。今日は朝から晴れたけれど、まだ寒さは続いており、防寒用の衣類が必要だった。それでも、ここのところ、見かけていなかった黒猫やら本当に久しぶりの茶虎が朝から、のしのし歩いているのがベランダから見えて嬉しかった。

 

昨日は、終日、天皇家と宮家の主に昭和史と絡めた本を読んでいた。

 

最近は、何が本当か世の中がわからないようになってきたので、特定の解釈が施されたものや、思想的な立場があるものではなく、事実に即したものが面白く思われる。なかでも、お金やモノの動きだ。

 

GHQによる天皇家や皇族の財産調査では、土地や有価証券、宝石類などで、いずれもかなりの資産持ちであることがわかる。戦前の天皇家は御料林からの収入が莫大な林業家の側面もあったのだ。

 

リストアップされた宝石類はかなり細かく記載されており、天皇家だと、王冠3、ネックレス13、髪飾り3、ブローチ17、腕輪4以下、いろいろ続いており、オペラバッグ3、というのまであるが、すべてダイヤやパールが使われているから、リスト化されているようだ。総額280万円。今の貨幣価値だとどれぐらいになるのだろうか。

 

宮家のなかでも、高松宮家の資産が群を抜いて多い。このあいだ行った、葉山の美術館の海に張り出した見事な枝振りの松にその権勢が偲ばれるが、高松宮家の資産が多かったといわれると、なるほど、という感じである。

 

結局、戦後、11宮家が消滅し、天皇家の他には高松、秩父、三笠の3直宮だけが残ったわけだが、この3直宮も実は残れないかもしれない、危ういラインにあったようであるのは発見だった。

 

知らなかったが、三笠宮は昭和18〜19年にかけて、南京の支那派遣軍総司令部にいたということだ。その派遣前に三笠宮は3年間中国語を学び、現地では「おしるし」の若杉を名前に転用して、「若杉参謀」と名乗って、中国との平和工作に携わっていたらしいが、はっきりしたミッションはもちろん明らかにされていない。

 

蒋介石天皇の弟が大陸にわたったらしいことは把握していたらしいが、それが若杉参謀とまでは判明していなかったようだ。今のように、個人用のmacなどでさえも、簡単に顔写真の識別ができるような時代からは、考えられないことだ。いや、でも、あの皇族顔を見れば分かりそうなものだが…。

 

その後、帰国して、三笠宮大本営参謀に転任、東条内閣打倒クーデターに参加するも、その過激さに驚いて、憲兵隊に通報し、クーデターは未遂に終わったとか。こんな話は初めて知ったが、参加して裏切ったのか、というか、ちょっと呆れた話でもある。三笠宮と言えば、最近は入退院を繰り返しているあのご老人、その前はオリエント学の宮様、といったイメージしかないので、工作活動やらクーデターというと、びっくりである。

 

また、昭和天皇高松宮秩父宮は年が近かったので兄弟間の緊張関係があったが、三笠宮は十何歳か離れているので、そうしたものはなかったらしい。昭和天皇は、平和主義者だったというイメージをつくりたがっている高松宮をチクリと批判している言説などもある。昭和天皇にもその言葉はそのままお返ししたいが。

 

消滅した11宮家はある日、天皇から「申しにくきこと」として、皇籍離脱を申し渡され、戦後は財産もそういうわけで失われ、手元不如意でいろいろな「宮様商売」をしては失敗したりなど、そういうことはよく知られているけれど、戦後になっても、天皇から賜る品々があったりはするが、梨本宮伊都子妃のダイアリーによると、白桃の缶詰一ダース、宮内省からは水飴の缶、だったりするのが、具体的で面白い。

 

平成天皇パラオ慰霊の旅の報道で、メディアはたいそう盛り上がっているが、そんなテレビを横目で見ながら、昭和史をひもといていると、そう単純な話ではないな、とつくづく思える。遺族たちは、天皇の訪問で彼の地に眠る親族も喜んでいると言っているが、本当はどうなんだろう。普段はあまり訪れるひともないペリリュー島の慰霊碑が、日本の方角を向いているのが、夕陽に映えて切なく思えた。

 

戦死者の魂は、天皇の訪問を喜んでいるかどうかは定かではないが、こうして関心を持たれることはきっと喜んでいると思う。忘れ去られることは最も辛いことだから。

 

昨日は雪が降ったけれども、2.26事件も、秩父宮を擁立しようとした勢力がいたという説もあるし、そもそも貞明皇后は、秩父を帝位につけたがっていた説というのもある。昭和天皇と兄弟達は実は父親が違っていて、という説すらあるが、たしかに、そんなふうに見えなくもない。昭和史はまだまだ霧のなか…。