世間並みでない

昨日、今日と、お花見をした。どこも家族連れでいっぱいだけど、私は昨日は近所の公園でひとりでのお花見、今日は母のホーム近くの桜で有名な公園で。その公園は、ウチの近くの公園と同じく、米軍基地だったものが日本に返還されたもので、その近所には、いかにもアメリカンスタイルのダイナーみたいなレストランがあったり、払い下げのもと米軍住宅があり、平屋の(英国英語で言うところのバンガロー)レトロなスタイルが眼をひいた。

 

大きな公園の桜はトンネルのようになったところもあり、枝振りも素晴らしい。でも、小さな子ども連れの家族が多く、なごやかな雰囲気ではあるけれど、桜の儚さとか文芸や歴史との関わりを想ったりするには、不向きではあった。

 

一人であったり、でなければ、老母と二人で花見をする自分は、であれば不幸な人間なのだろうか?

 

考えてみると、自分は、世の中の基準に合わないことをどこかしら不幸と感じていたのかもしれない。でも、今日はっきりと思ったのは、自分の歩んで来た人生は「自分にとって」間違いではなかったという、確信にも近い思いである。

 

元来、あまりタフな神経を持つわけでもなく、恬淡とした自分には、子どもを育てるといった本能的な(あるいは動物的といってもよい)行為は不向きで、正直に言えば、

うるさい子どもは好きではないのである。

 

それに、人には人の価値観があっていいと思うが、男性と互角の、あるいはそれ以上の能力を持ちながら、やっぱり「人の道を踏むべきだ」とか「世間並みがよい」といった考えから、結局は「家庭のひと」となってしまった女性たちが多いわけだが、それはconformistなのかもしれない。

 

あるとき、大学の後輩が、「哲学科出身だなんてとても言えない…」と、多分、同輩のお母さんたちのあいだで目立つことを忌避しているような発言をしたので、驚いたものだった。

 

究極には、外で働くとか、いわゆる「家庭にはいる」といった選択の問題というより、こういった「自分を殺す」ような生き方をするのが、一番よくないことだと、今の私には思える。

 

私が仕事をかつて続けてきたのは(あるいは続けてこれたのは)、フェミニストが議論するような特別な「やりがい」とか「モチベーション」とかではなく、一にも二にも生活していかなければならなかったからである。

 

多分、自分は生まれたときから、世間で言う「絵に描いたような幸福」というものは全然求めていない「変わり種」であったのだが、それに気づくまで、あるいは、そうした気持ちに正直になるまで、ずいぶんと時間がかかったということなのだろう。

 

子どもが鬱陶しいとか嫌いだとかは、非難されるから、自分の気持ちをあらわせなかった。でも、それを続けていくと、自分は窒息しかかるのだった。自分は子どもを守ろうとする女性の本能みたいなものが、肉食獣的で不快だし、また、「女性の役割」を押し付ける社会というものにも、本能的に拒否感がある。