ディレンマ

昨日の夕方から、くしゃみが続いたり風邪をひいたのでは、と思わせる症状があったのだが、たまたま見た「まぐまぐ」の記事に、「冷えのぼせ」というものについて、鍼灸師のひとが書いていて、風邪や花粉症ではなく、寒さによる粘膜等の乾燥ではないかと思い至った。寒さがキーンと鼻を突くような感覚が結構好きなのだが、それがどうもよくないらしい。観念して、マスクをかけて外出することにした。

 

最近は、今まで自分の見てきた世界はなんだったんだろう、イリュージョンだったのかと思わせられることばかりである。

 

今、思うと「そういうことだったのか…」と、手品の種明かしをされているようなものなのだが。

 

ひとつはミッションスクールのこと。曾野綾子アパルトヘイト的なコラムを書いて、南ア関係からも抗議を受けたりしているが、ミッションスクールの闇みたいなものが、ようやく表に出始めてきている。

 

上智大学紀尾井町の一等地、清泉女子大が島津公爵邸というように、ミッションスクールやカトリックの宣教会が東京の不動産的には一等地を所有していることは、かねがね私も不思議であったが、これが日本の支配階層や占領行政とキリスト教、ひいては、布教をしたい欧米勢力との絡みで考えれば別に不思議なことではない。

 

文科省中央教育審議会の新委員が発表になったのだが、国際基督教大学の学長(女性)が入っているので、経歴を調べてみたら、大学院はペンシルヴェニア大学だが、学部は上智大学である。

 

創価大学出身者が外務省職員や検事になる比率が年々上昇しているというのはよく指摘されているけれど、上智大学出身者が軍縮大使(実はジュネーヴでは馬鹿にされていたというが)やら中央教育審議会やらの要職を占めるようになってきているのは、あまりよいことだとは思われない。

 

なぜなら、上智はイエズス会が戦略的意図のもとに創建した大学だと思うし、国際基督教大学については、もっと、その意図は濃いし、占領期のdarknessと深く関わっているように感じられるからだ。もっとも後者については、その意図はこれまでのところ失敗してきたからよかったようなものだが。

 

私の高校時代に上智大の評価が急上昇したのだが、それは今思うと、いささか不自然だった。四十年以上前のことである。が、そのとき”撒いた”タネが今頃発芽しているということであれば、その「深謀遠慮」は怖い。また、内親王二人の進学がなければ、女性学長だからと言って、基督教大という、いわば「色」のかかった大学のトップが中教審の委員になるだろうか?疑問である。

 

振り返ると、日本の中産階級は、戦前と比べて「貧乏」になったのではないだろうか?

階層というものがなくなったこともあるが、戦前の中産階級の家には、だいたい「ねえや」などがいて、子守りや家事手伝いをしてくれていた。戦前であれば、「保育園待機児童問題」はなかっただろう。少なくとも中産階級においては。

 

在京の米人知人宅などでは、だいたい、フィリピーナのベビーシッターを雇っていたりしたが、現行の法律では日本人は外国人のシッターは雇えないし、また、在京の外国人の一部のように、高所得でなければ、それは難しいだろう。

 

子どもにとっては、住み慣れた環境で、世話してもらえるのがベストだろうが、それは、今の日本人にとっては、手の届かない「贅沢」なのである。

 

安倍首相は年金基金をカジノ経済に投入するとシティーで言明してきたし、海外行脚をしては、ODAや無償援助の大盤振る舞いをしているが、もし、安倍氏自身が、本来の「地元民」でなく、誰か別のものの利益のために、国民の税金を湯水のようにバラまいているのだったら、由々しいことである。いったい誰の利益のために彼は動いているのだろう?

 

鬼塚氏の論には全面的には賛成できないし、首肯できる点とそうでない点があるのだが、

女性週刊誌での「安倍家のお手伝いさんの証言」というのが引用されていて、興味深かった。

 

お手伝いさん曰く、安倍首相の父親の逝去の際に、納棺の手伝いをしたのだが、「もちあげた時に、肩幅の広さ、そこから足までの定規でひいたようなまっすぐな直線が、ああ、あちらのひとのものだ、と思った」と言っていて、それは、安倍首相の背格好を見ても、頷ける。日本人的な猫背ではないし、姿勢がきわめてよく、肩幅が広く、ガッチリした体型である。

 

明治天皇自体が、こうした安倍家なども輩出した山口県熊毛郡の田布施出身という、「すりかえ説」もあるぐらいだ。そもそも、「すりかえ」がなくても、南北朝の時代に既に二分裂しているわけである。「正統性」はいったいどうなっているのだろう。

 

ただ、天皇の戦争責任や皇室のtrickyな体質を改めて問うことが、日本の土台を揺すぶって、脆弱なものにしてしまうことを私は怖れる。なぜなら、正統性を失ったら、「額縁」がはずれたことによって、外国勢力の跳梁跋扈をいっそう許してしまうのではないかということだ。額縁の嘘を指摘すれば、絵全体が崩壊してしまう、といったような。

 

曾野綾子の失言が世界中に拡散され、安倍政権と日本のイメージは著しくダウン、単に耄碌しただけならよいのだが、ネルソン・マンデラが釈放された記念日にその発言というのもあまりにもタイミングがよく、日本を貶める宣伝として計画されたのでは、と疑いたくもなる。曾野綾子にはたいして失うものはないのかもしれないし。