日本的基督教

なんだかな〜と思うことが多い。何が本当で何が正しいのか。ただ、世の中の表に立っているひとたちが、かなりおかしいと思うことが多いのだが、ネット言説もそれなりには偏っていたりもする。だから自分なりの軸が必要だ。

 

昨年逝去した井上神父の著作集が出るそうだ。

 

http://bp-uccj.jp/publications/inoue/

 

いわゆる「日本的なキリスト教」の探求者として、インテリから一般まで根強い人気があるが、私はこのひとの感傷的なアプローチが好きになれない。遠藤周作も似たようなところがあるが、遠藤氏のほうが小説家という芸術家だから、もっと体を張ったすごみが一部あって、電話で話したこともあるが、誠実なよいひとだった。ただし、遠藤氏のキリスト観は人間的なもの(あるいは自分を)を投影しすぎていて、同意はできない。

 

井上神父の日本的キリスト教の探求の背景には、フランスのカルメル会で「苛められた」トラウマがそれに向かわせたと聞いたこともある。が、朝から晩までジャムの鍋を掻き回させられたぐらいで「イジメ」だととるのであれば根性がなさすぎだし、それ以外にも差別などがあったのかもしれない。東大哲学科卒だからプライドが高過ぎたのかもしれない。

 

「イノヨー」とカトリック界では呼ばれている彼は、マンションの一室で「風の家」という任意団体をつくって、カルチャーセンターでの講演やら何やらに飛び回っていた。外ではたくさんの「ファン」がいたようだ。カルチャーセンターではおそらく彼のクラスは「サロン」化していたのではないかと思う。

 

が、私が聞いた話では実は所属は東京教区であり、教区司祭の報酬を貰いながら、教区の仕事は何一つせず、連絡先もオープンではないので、教区が電話の取り次ぎなどをさせられたということで、地味に仕事をしていた司祭からは、よく言われていなかった。いろんな悩みを抱えていたひとたちが著作を読んで「風の家」にコンタクトをとろうとしても、難しかったようだ。

 

そういうもろもろを外のひとはあまり知らないから、本だけ読んで「素晴らしい」と思うのだろう。イノヨーを持ち上げて最近精力的に著作/講演活動をしている若松英輔なんかも、どうなんだろうか。イスラム学者の井筒俊彦とか、神山復生病院をつくった岩下壮一とか、扱っているフィールドには共感するところもあるが、いろいろ違和感がある。結局、宗教を扱っていながら、「信仰者」ではないところが、私には共感できないところなのかな…。パスカルの言うところの、「賭け」がない。「なんとなくスピリチュアル」程度の噛みごたえ、というか。

 

最近、T翁に関して思うのは、彼に関していろいろ偽言説があって、「この病気にならなかったら、私はもっと傲慢な人間になっていた」と言ったとか、ネット上に書かれているが、おそらくそんなことは言ってないと思う。

 

今、思うのは、彼について、あるプロテスタント信徒夫妻が言っていたことだが、彼はいつも、「自分はギリシャ正教徒」とはっきり言っていた、と強調していたことだ。

夫人が言うには、「自分などは裁判の調停委員をしていたりして、時によっては、クリスチャンであることは伏せていたりもするが、そういう点で、彼の毅然とした態度は印象的だった」と言っていた。

 

私がS君の紹介ではじめて手紙を出したときも、貰った手紙の内容は忘れてしまったが、

正教の信仰についてだったと思うが、あまりにも当たり前のことしか書いてなかったので、「なーんだ」とすこしがっかりしてしまった。が、今分かるのは、信仰の要諦というのは、井上神父や若松氏(岩下もそうかも)が美しい文章で華麗に綴るような、そういうものではあらわせないものだろう、ということだ。ようやく最近分かるようになった。

 

その意味で、T翁の生涯はドラマチックなところよりは、むしろ、まことのconfessorであった、と言えるのではないかと思う。

 

日本の風土にあったキリスト教という観点は、重要な点だと思うけれど、きっとそれは井上師のように「南無イエス」と唱えるようなものではなく、誰かの生涯や「暮らし」を見て、感得するものかもしれないと思う。牧島如鳩の仏画のようなありかたは、生計のためにはじめたことだけれど、自然というか融通無碍で、いいなあ、と思う。

 

私が北国の教会で、素朴に再臨を信じる執事長さんの堂々たる発言に驚いたように、そのひとの生き方に出て来るものなのかな、と感じる。

 

ところで、ふと、以前、ある日本人正教徒の弁護士だったか 法律家が駿河台の教会の登記の変遷をたどって、実は現在の教団の所有の合法性が疑わしいとかなんとかの論文を書いていたことを思い出して、それは別途探すとして、いろいろ検索していたら、早稲田の紀要に書かれた以下の論文がPDFであがっているのを発見。

 

http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/44209/1/ShagakukenRonshu_23_Sukhanova.pdf

 

日本正教会の自治独立の際には、佐山派はまったく聾桟敷に置かれていたのだなあ…と。筆者はモスクワ大学の歴史専攻のはずだけど、モ大のアカデミックなトレーニングは日本なんかとは比較にならないレベルで、一年目は文献の扱い方と方法論だけを徹底して習うというが、まあ、よく調べているし、偏りがない。これを読むと、シュメーマン師が、ディプロマティックというのがよく分かる。

 

本当は「正統」ではないものが図体が大きくて「正統」に見えるということはよくあることだけれど。この論文を読むかぎり、教会法にこだわっているミッション派のほうに理があるように思えるけれど、世間的には「狂人」扱いであるわけだ。