ルーマニア

猫たちは隣の隣あたりの原っぱで、寝そべってたり、遊んだり。いつも、そのあたりで群れているので、一階の住人のベランダ下あたりが定宿で、そこのあるじとたぶんよい関係なんだろう…。

 

私と猫たちは、直接の接触はないのだけれど、距離を置いて、お互いに関心を持っているような間柄。

 

強風でどこからか飛んで来た濡れたビニール袋が猫が原のケーブルにひっかかっていたので、まずいなあ、管理人に連絡しようかなと思っていたら、朝、カラスがごちそうのかけらでもあるかもと思ったのか、その袋を素早く掠め取って、飛び去った。自然界はうまくできている。カラスもこんな時、役に立つのだなあ、と感慨深い。

 

ふと、以前、ルーマニア正教会が飯倉の聖公会で日曜礼拝をしていると聴いたことを思い出し、検索してみたが、今は、東京タワー下ではなく、用賀に移って、結構立派な機関誌も出して、ネット上にあがっているので、びっくりした。聖堂を貸しているのは、アイルランドが本部のカトリックのC宣教会。

 

北大のスラブセンターの人が、ルーマニアからアマチュア歴史家を案内して、日本の正教会を訪ねる訪問記を書いていて、面白い記事ではあったが、日本正教会が日露ルで礼拝を行っているというのは、どうなんだろう、もしかして、復活祭の朗読ぐらいはあるかもしれないが。

 

http://src-hokudai-ac.jp/jp/news/129/news129-06essay1.htm

 

それにしても、教会間の縄張り争いは、地面取りのようでもある。完全な独立教会でない日本には、ル教会は聖堂建設ができない、教会法上の問題がある、というのは知らなかったが、日本正教会はコミュニティ活動が好きな市民活動家の集まりで、外交と陰謀はモスクワにおまかせにしておくと居心地がいいのだろう、という表現には笑ってしまった。

 

修道院がないから、という理由の方はかなり説得力があると思うが。

  

が、Romanoff家の遺骸の真贋に疑問を持つ自分は、彼らが祀り挙げられて、一件落着になっていること、また、2007年のレユニオンにも疑問があるし、さりとて、在外教会が正しかったとも言えないと思っているのだけれども、わだかまりが少なからずある。(しかし、露教会はDNA鑑定に疑義ありとしているのだが)

 

その点で、Romanoff家の正統性をめぐって、霊父アントニーと袂を分かったT翁の心境というか、政治的センスは、なかなかである。非妥協的という点で。きっとやはり子どものような直観があったのだろう。 

 

時間が経たないと分からないことがある。私が洗礼を受けたころ、故人となったS君と、ちょうどその少し前だったか、公開された映画「ニコライとアレクサンドラ」の原作や、原作者夫妻の自伝について、話が盛り上がったものだった。

 

その頃、ろまのふ一族も列席してのワールドプレミアなどの、ゴージャスな話が話題になっていたと思うし、それになんの疑問も持たなかった。

 

が、一昨年だったが、映画評を書いてみようと、改めてこの映画を見直して愕然とした。皇女たちが、ボルシェビキの警備兵たちとたき火の周りでダンスをしたり、「娼婦って何?」みたいに、皇女たちがふざけあう場面があり、そこになんとはなしの、「悪意」みたいなものがすべりこまされている感じがした。もちろん、全体には帝政万歳ムードでつくってはあるのだが。

 

夫妻は息子がヘモフィリアであることから、皇帝一家に関心を持ち、今ではろまのふ研究家として有名になったわけだが、そこにもっと複雑な事象が絡んでいただろうことは、当時の私には分からなかった。

 

私の考え過ぎかもしれないが、エヌエイチケイの特集番組でペトロパブロフスクの皇帝墓所に安置された、一家のイコンの顔が、なんだか哀しそうに見えた。

 

まあ、でもこれだけいろいろ書くのは、アンビヴァレントな感情があり、教会へ行きたいという気持ちの裏返しでもある、ということなんだろうなあ…。

 

結局、人間は完全に社会から断絶して生きて行くことはできず、どこにも問題や葛藤はあって、それを調整していくというのが、人生なんだろうとの結論に達する。

 

この数年、とくに震災以降は、いろんなしがらみを絶ったのはよいが、それが極端になると、社会で生きていくのが難しくなる。

 

また、大切なお友達、と将来が分かれ道になってしまわないよう、東京を引き払ったり、いろんなことに手をつけてみたが、結局話し合いということはないので、誤解のまま、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりと、学校へ行ったり、止めたりと、定めない人生行路になってしまった。

 

唯一の家族である母は高齢だし、人間はひとり、と言っても、やはり一緒に歩むひとがいるほうがノーマルだと、最近は思う。そうだとしても、自分が自分でなくなるような無理をして、相手に合わせても長続きはしないだろう。

 

これ以上、引きこもり状態を続けることは、社会的存在であることを抹消するようなものなので、それはやめようと思う。いろんな問題が起こるかもしれないが、それを「現実」のなかで解決していきたい。

 

昨日お蔵入りした記事もあり、これもどうしようかと思ったのだが、書いては下書きに戻し、ということを繰り返してもいても、と思って今日のは載せることにした。

 

 

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