若者

桜の香りの落ち葉がひとひら、ふたひら、舞い降りる季節になった。台風のあと、我が家のベランダのゼラニウムはいっそう元気になって、毎朝、新しい花が開く。ラヴェンダーも新たな枝が出て来た。

 

近所にある市役所の食堂で、当地名産の里芋を練り込んだうどん、という、ちょっとした美味しいものを発見。役所の8階の展望フロアにあり、周りは公園しかないので、眺望も佳く、お値段は学食並みで、学食マニアの私にとっては嬉しい。食堂のおばさんたちもとても親切である。

 

世の中は本当にいろんなひとで成り立っている。

 

最近、メディアをお騒がせした、ISに入ろうとした青年のことなどでも、仲介したと言われるハサン中田という学者がニュースなどではさもさも危険人物のように言われているけれど、そもそも、彼はムスリムで、優秀なイスラム法学者であり、アラビア語にたいそう堪能で、イスラム世界では尊敬されている、たいへんな学識の持ち主だ。

 

日本には、井筒俊彦のような世界的なイスラム学者がいるにはいたが、彼はその世代の仏教学者やチベット研究者たちと同じく、西欧語に堪能な、欧米経由での学問大系に属する人々であるのに対して、日本のイスラム学者も中堅から若手は、カイロ大学とかで直接学んだひとたちが主流である。そちらのほうだ。

 

おかしなのはこの大学生のほうで、普通だったら、そういう若者に関わらないわけだが、ハサン先生は大学を辞めてからも教育者として自分を位置づけているようで、若い世代の面倒を見ることは当然と考えており、また、彼を知る東大の同窓生や高校の友人たちがこぞって彼を擁護しているように、本当にイスラムの教えに忠実な、寛容と慈悲のひとのようだ。

 

ところが、そうした宗教的信念は「この世」では往々にして誤解される。奇矯な、ぐらいならよかったが、今回の場合は、家宅捜索にもなって、通信機器なども警察に取り上げられているようだ。

 

彼自身はっきりと「ISはイスラム法には適合しているが、そのやり方には反対だ」と言っている。

 

彼の友人のひとりが書いていたが、これだけイスラム世界の「まともな」宗教的指導者や学者に尊敬されているひとを、日本の政府はもっと巧く対話者として使うことができるはずなのに、犯罪教唆者のようにされている、としているが、同感である。ハサン先生が目指しているのは、シーア派とスンニ派の和解であり、普通に考えても、非常に困難なことではあるが…。

 

ハサン先生も相当変わっているが、学識のある、ユローディビのような人なのではないかと私は思っている。

 

ただ、精神的に問題があるといっても、やはりそうした日本青年がISで活動するということになれば、国際社会では、なぜ水際で止められなかったか、という譏りを日本政府は受けるだろうから、警察の判断もしょうがない面もある。

 

ただ、今回の青年や「大司教」(キリスト教の聖職者のハンドルネームを持っているところが可笑しいが)といった若者たちが、おおむね理系で飛び抜けてアタマがよく、しかし、社会には適応しにくい性格であり、そうした人々の行き場がない、ということもひとつは問題だろうと思う。就職に失敗したぐらいで、と市井のひとは言うだろうが、「受容れて貰えない」という疎外感は私にはわかるところもなくはない。

 

ハサン先生が「死にたい」願望がある青年に、別の選択肢を示せればよかったのだろうが、彼らとってそれは今の日本にはないのだろうと思う。いや、ないわけでもないのだろうが、頭脳明晰な彼らにとっては、日本で(彼らの主観にとって)二流三流の立場に甘んじるぐらいなら、死んだ方がましというメンタリティ、つまりプライドの問題も無意識レベルだが、大きいのかもしれない。

 

精神的に問題があるのは事実でも、現行の精神科医でそうした問題に対応できる、人格のひとはまずいないだろう。

 

まあ、どこかに隠者みたいなひとでもいて、若者に人生を語れればよいのだが…。

 

昨日テレビで、90歳、100歳といった超高齢者には、その環境によらず、幸福感を持つひとが多いのだという。若者問題の対局といった感じがする。しかし、振幅が大きく、血気にはやっているから、何かを遂行することができる、という面もあるわけである。しかし、「血気」だけでは何事もなしえない、というのも事実。

 

人生に「王道」なし、ということか。