マムレの木の下で  

このブログには、読まれなかったために、「下書き」扱いに戻し、保存してあるものがたくさんある。

ニコライ堂で、お盆の頃に若い司祭M師が急逝されたが、どうも記事や写真を見ると、私が以下の戸外でのお祈りについて、これは何ですか?と訊ねた際、教えてくれた柔和な感じのよい神父さんだったようだ。

 

とても残念なことだ。心臓発作らしいので、もし教会にAEDがあれば、亡くならなくてすんだかもしれない。あんなに病院がたくさんあるところで、お気の毒としか言いようがない。

 

当日読んでいた式文が下記にあるように、穏やかならぬものだったのだが、正教会の式文にはままあることなのかもしれない。もうひとりの神父は、最年少のK師だった。

 

 

<8.1日の日記再録>

午後、9時ごろ、さきほどだが、轟音を立てて雷が鳴った。このところ、不安定な天候が続いている。日曜日も急に冷たい風が吹いて、気温が一瞬下がり、道にある葉っぱが渦をまいて舞上がった。その次の日は、飛ばないはずのラフィアの帽子が吹き飛ばされるぐらいの強い風。

 

お茶の水にいったついでに、N堂へちょっと足を運んだのだが、入り口の売店前の木の下で、お祈りをしている一団がいた。横に黒い車があったので、お葬式かと思ったのだが、まさか、外で祈祷するわけもない。信徒4人に神父が二人。

 

どうも、車の成聖と安産祈願だったようだ。ベンチに腰掛けて祈祷文に耳を傾けていたのだけれど、「…ある者は殺され…」というフレーズが聞こえ、どうも迫害か何かについての聖書か聖伝の「よみ」なのだろうが、祈祷の意向が意向だけに、なんでこんな式文なんだろう、と不思議に思った。

 

聖書には、コヘレトを始めとして、「その日には、子を産まなかった女性は幸いである」といったような、終末を示唆するようなフレーズが時々あるが、そんなことを思い出した。

 

ロシア人のカップルがK神父に売店のイコンについて訊ねていたが、聖母やキリスト、司教たちのイコンに混じって、ちょっと目を惹く位置に、女性聖人の単身像が堂々、飾られていた。「マトローナ」です、と神父は説明していた。

 

どの「聖マトローナ」かわからないし、古い時代の聖マトローナかもしれないが、マトローナ・モスコフスカヤという近代の聖人かもしれず(なんだか農民風ないでたちだったので)、調べてみると、革命を予言したり、病気の治癒をした人で、今でもロシアでは篤く信仰される聖人らしい。

 

日本でも、新興宗教などで、この種の能力に目覚めて開教するのは、農家の主婦とか、そういった層がほとんどであることを思うと、興味深い。

 

教会ニュースをぱらぱら見てみると、7月の公会の写真が掲載されていて、集合の列を見ると、私と同年代とかもっと若い層がもう長司祭になっている。「組織人」という風貌である。

 

まあ、そんなことはどうでもよい。が、時々、この「売店」でたまたま遭遇するイコンに私はインスピレーションを貰うので、通行人みたいに、寄ってみるのであった。単なる「思い込み」か「霊感」なのかは微妙なところ…。(苦笑)

 

木の下のお祈りというのは、雰囲気があって、アブラハムが天使をマムレの木の下でもてなしたおはなしを思い出す。シャガールも描いているけれど、この話は超自然なのだが、「羊飼いたちが怖れた」クリスマスの天使出現みたいではなく、なんとなく、親しみが持てて、好きなのである。

 

うちの桜の木のところへも来てくれないかな…とか。でも、実際にそういうことになったら、畏れて、驚き、仰天してしまうだろう小心者なのだが。