女神

朝から爽やかに晴れた日。湿度も低く、最高の日和。今日が誕生日だからと言うわけでもないが、思い立って、午後から、上野の都美術館で開催されている展覧会に行ってきた。

メトロポリタン美術館古代エジプトコレクションから、ハトシェプスト女王はじめ、女性の王族や女神に特化して、集められた品々である。

 

結論から言えば、たいそう素晴らしい展示だった。メトロポリタンで同名の展覧会を開催したのが2006年で、日本に持って来るのになんと8年かかったのだとか。

 

なんとなく知っているような気がしていたエジプト美術だったが、実はあまり見たことがなかったことを今更のように後悔するぐらい素晴らしかった。メトロポリタンには行ったことがないし、きっと、行ったとしてもエジプト美術は見ようとは思わなかったかもしれない。ギリシャ・ローマの美術やキリスト教美術志向で凝り固まっていたから。

 

メトロポリタンの収蔵コンセプトがそうなのかもしれないが、歴史的展示としてもたいそう興味深いが、それだけでなく、ひとつひとつの展示物が非常に美しいことに感銘を受けたのだ。

 

考古学的出土品と言うと、なんだか埃っぽくて、さして美しくはない、という先入観を打ち破る、まるでジュエラーのような装飾品の数々。指輪やイヤリング、祭祀用の楽器、ゴブレット、凝った化粧道具の数々、すべてが磨き上げられていて、ブルガリのショールームみたいである。

 

石版の低浮き彫りの線描なども実に洗練されていて、第18王朝のある奉納石版などは、解説によれば、炎症を抑える薬にアカシアの葉が使われるが、その木を背景に二人の女神が相対しているもの。これは本当に線が美しく、「綺麗だねえ」と周りから溜息が漏れていた。最下部に男性の名前があることから、出産後の妻の回復を願って奉納されたものらしい。

 

ミイラをつくるときによく言及される、カノプス(内臓収納壷)も今回そういえば、初めて見たのではないか。ツタンカーメンの母、キアのものがあって、上部にその顔がついているが、可憐で美しい顔で、カノプスというと、なんだか怖いイメージがあったが、全然そういうものではなかった。

 

解説文では、古代エジプト人は脳の機能についてまだよく知らなかったので、心臓が人間の記憶や思考をつかさどるものとして尊ばれ、心臓を残して、他の内臓をカノプスに入れたと書かれていたが、実は、最近では、心臓こそ記憶が宿る場所と言われたりしているわけで(心臓移植などで人格が変わるケースなど)、古代人だから未開といったような憶断があるのは、ちょっと残念な記述だった。

 

しかし、最も衝撃を受けたのは、以下の二つ。

 

一つは、ハトシェプスト女王の祭祀殿(巨大なもの)にある、その母、祖母を描いた壁画をハワード・カーターが模写した二点の絵。何気なく見ていた模写図に、流麗なサインが入っていて、読むと、Haward Carterと書いてあって、「あのカーターか!」と興奮してしまった。

 

ハワード・カーターの発掘物語などを熱心に読んでいた少女時代を思い出し、しばし感無量であった。考古学者なのにこんなに絵が巧いのか、というのも驚き。祖母セニセネブの絵はカーターが最後まで手放さなかったものだという。

 

もうひとつの衝撃は、いくつか並んで展示された、ホルスを抱くイシス女神の像。こういう考え方を否定するひともいるとは思うが、私のなかで、これを見た瞬間、聖母子像まで連なるものを一瞬にして感じ取ったのだった。座像なので、いわゆる黒いマリアに似ているが、子どもが横向きなのは、ちょっと違うが。

 

これは、あらゆる宗教はシンクレティズムだ、とか、比較宗教学がどうのこうのといった話ではなく、直観として感じたことなので、その印象は強烈だった。考えてみれば、エジプト神話、エジプト人の死生観というのも、オシリスに見られるように、死と再生が

鍵となっているわけで、キリスト教もそうだし、日本にも「常若の神」という概念があるように、人間のこころのなかにそもそもそういう鋳型があるのではないか。

 

結構、混んでいたので、小さなスカラベとか護符とか魔除け、指輪などを見るのも大変だったが、それだけの労力をかける価値のある展覧会だった。

 

展示物のなかには、弓状の12弦のハープ(第18王朝)もあった。祭祀に使われたシストラムという楽器のようなものは、シャラシャラと音がしたそうだが、日本でも天皇が「お鈴の儀」といって、鈴を鳴らす神事があるが(正確には誰も見られないそうだが)、古代の音楽は共通性があるのではないか。シストラムはどんな音がしたのだろう。