大修道院

ひんやりすることもあるほどの日だったのが、また、蒸し暑くなったりと定まらない気候。鳥たちも、なんだか静かだ。

 

一昨日、胡蝶蘭が開花した。

 

f:id:amethystlady:20140713091810j:plain

 

日曜日、グランドシャルトルーズ修道院のドキュメンタリーを見にいった。

 

修道院ものが最近人気なのは分かるが(「イーダ」というポーランド映画も来るし、「修道院の食卓」やら「修道院の◯◯」といった本もあれこれ出ているし、まあ、もともと青池保子の「ファルコ」のように、修道士マンガまであるぐらいだから人気は分かっていたが(だから、マニアの若い子たちが普通に「トンスラ」なんて言ったりもしてある時期驚いた)、日曜日の朝から、こんなに人が来るか、といった混み具合。

 

チケットの行列で観察していると、中高年の夫婦も多いし(奥さんに連れられてくるのだろうか…)、中年の女性連れ、若い女性はだいたい一人で来ている、というパターンだった。若い男性はほとんどいない。

 

映画自体は、監督一人しか撮影に入ることがが許されなかったので、映像はさして美しくなく、素人が手持ちカメラで撮ったよりちょっといいかな…みたいな印象で、音楽やナレーションがないのはいいが、例えば、理髪のシーン(電気バリカンで坊主頭にする)が延々と続いたり、白いシトー会(これはそのなかの「カルトジオ会」だけど)のローブをつくるテーラー係のシーンなども、淡々と長く、まず、生理的にそれについていくのが大変で、約3時間の最初の1時間は、単調な画面についていく「苦行」だった。

 

なんとか、それを乗り切ると、後半では、屋外での休憩の、修道士たちの会話やら、雪山のハイキングとか(靴のままスキーのように滑り降りたりして遊んでいる)見所もいろいろあって、面白くなってきた。(やはり耐えきれず、途中退出したひともいた)

 

我慢した甲斐あって、祭日の食事のシーンで、バシレイオスの「聖霊について」が読まれて、ここは感動的だった。このテキストを探していたのだった。

 

驚いたのは、食事は原則、独居房でとり、日曜と荘厳祭式のあるときだけ、大食堂で皆でとるのだ。だから、普段はキャリーにのせた各自の食事を配る係がおり、それぞれの房の、小さな鉄トビラをあけて差し入れる、まるで「監獄」風なのであった。

 

とはいえ、自室で小さな模型キーボードみたいなものでグレゴリアンの音をとっている修道士がいたり、とか、修室のなかでは、かなりの自由度があるようだ。

 

説明がないので何のことか分からないことも多いのだが、興味深く思ったのは、食事の前に手を洗う水タンクみたいな(昔日本の旧式トイレに下がっていたようなものの大型)のがあるのだが、ほとんど一滴ぐらいしか水が出ない。そして、修道服の一部なのかリネンタオルなのかなんだか分からない輪にした布が下がっており、それで手を拭くのか…。

 

ひとつだけ野外での会話シーンがあって、「カルトジオ会」の手を洗わない伝統について、皆があれこれ冗談まじりに話していたシーンが面白かった。このアルプス山中は本院(母修道院)だが、イタリアのパヴィアの院には、蛇口が6個あるよ、とか、誰かが混ぜっ返していた。そのあと、誰かが、「来週はソウルに行くよ」とさりげなく口を挟んだり。房の窓から見た空の機影も何回か映った。中世のスタイルだけど、現代とも繋がっているという意味なんだろう。

 

思うに「手洗い」の件は、修道がエジプトの砂漠で発生したときの伝統が残っているのではないだろうか。この院を創設したケルンの聖ブルームの名前がよく出て来たけれども、ブルームは、自ら率先をしてあらゆることをして、彼自身が「会則」だったので、カルトジオ会には会則というものが当初なく、時間をかけてつくられてきた、ということだ。

 

時々、挟まれる、会則なのか、何かの断章朗読なのか分からないが、とりわけ印象的なものがあって、「自分の弱さ、修道の厳しさに耐えられなくなったときは、荒野に出て、…」そのあとはちょっと言葉を覚えていないのだけど、要するに、自然と親しむべし、という、ことを言っていたことだ。だから、雪山のハイキングとかも、遊びというか、バランスをとるためのものではないだろうか。感心した。猫の餌やりのシーンもある。

 

ただし、ここはアルプス山中なので、冬期は本当に厳しい自然だ。

 

最後は、この大修道院の全景から空にフォーカスが移っておしまいだが、その「空」に

私は何とも言えないものを感じた。「知っている」「親しい」何か…。とりわけ、綺麗な映像でも何でもないのだが。空を見ることは、至福直観に繋がると言われるが、それは「魂の故郷」だからだろうか。私にとっては、そんな「空」だった。

 

よい、終わり方だった。