選択

雨降りは10日以上続いたのではないだろうか。人間まで湿っぽくなってしまうような天気だった。今日は久々にカラリと晴れ、これがしばらくは続くようで嬉しい。5.6月は熱中症になるひとが多いというが、それはまだ体が暑さに慣れていないからのようだ。

 

夕方、テレビで生殖補助医療についての特集をやっていた。自民党がこの問題について法案提出をしようとしているらしく、それもあっての取材らしいのだが、興味深かったのは、AID(夫婦間への第三者からの精子提供)によって生まれた子どもたち自身が、番組中に出て来たひとは、いずれも、提供者(つまり遺伝上の親)を知る権利を求めているだけではなく、この技術がひとを幸せにしない、という見解を持っていることだった。

 

医者が技術そのものを推進したいのとは異なり、また、技術の使用者であった親たちとは違い、その技術を使って生まれた当事者である子どもが、強く疑念を持っているということだ。

 

二人はいずれも、親がAIDを使ったことを隠していたわけだが(普通はわざわざ言わないらしい。日本では)、まことに劇的というか、一人は医学生だったときに、実習でDNA解析をしておかしいということに気づいたという経緯、もうひとりの女性は、やはり若いときに、父親が遺伝病を発症、その恐怖に怯える彼女に対して、母親が「実は父とは血縁でない」ことを告知したという経緯がある。

 

だから、二人とも、親との関係は今でも修復できていない。ずっと騙されてきたという思いが強い。

 

ところで、この法案には代理母出産に関するものもあるのだが、自民党は、AIDの父親を知る権利を認めることには反対で、且つ、代理母出産のほうは、こんな法案ができると、30代、40代は仕事に邁進して、50代で代理母を使って出産をしようという女性がこれからどんどん出てくるだろうという理由などで反対をしていて、なんだか論理に一貫性がない。

 

結局、どういう一貫性が自民党にあるかと言えば、子どもが親を知る権利を制限して、AIDを推進しようという根底には、やはり「家」の維持ということが透けてみえる気がする。結局、これまでのAIDというのは、子どもができないことを隠して、健全に家系を維持できているというパフォーマンスをしていたわけである。

 

代理母の問題のなかで、日本ではこれから制限つきで認めようという流れになるようだが、その条件のひとつとして、生まれつき子宮がない、ロキタンスキー症候群という5000人に一人発症する病気があって、対象疾病として挙げられている。

 

しかし、その患者さんの会のアンケートによると、結局、これが日本で解禁されても、自分は選ばないだろう、むしろ養子をとる、などという意見のほうが多かったのであった。

 

アンケートのなかには、ずいぶん長いあいだ、劣等感やもろもろの感情に苦しんできたけれども、自分は自分でよい、と思えるようになった…云々という言葉があった。

 

だから、代理母を日本で解禁したいひとたちは、むしろ、こうした、対象症候群に当てはまらないひとたちなんだろうと思う。

 

たまたまだけれど、夕方、先日検査をした産婦人科のクリニックから結果が送られてきていて、病気などの問題は一切なかったのだが、女性ホルモンの値が低いので、治療をしましょう…みたいなことが書いてあった。ちょっと迷った。

 

ただ、低いといっても、年齢相応の値なのだと思うが、今はHRTなどで補充をおこなうひとも結構いるし、そこのクリニック自体がHRT推進派だからだと思う。

 

ただ、HRTもやったことはあるのだが、夜中に動悸が出たり、却って不調になったので、止めた経緯がある。たしかに、ドクターの女医さんは、年の割には若いし、エネルギッシュかなとは思うが、HRTにはメリットもデメリットもある。それにいったいいつまで「補充」するのだろうという問題もある。

 

検査結果を見ながらつらつら考えていた時に、生殖補助医療の番組を見たので、「選択」という問題が、リアルに自分のものとして考えられたのだった。

 

地震放射能問題での移住もちょっと似たところがあるが、「頑張ればできる」こともたしかにある。けれども、移住してみた私は得難い体験はした一方で、負担が多かったことも事実。ゴムもある程度引っ張れば伸びるし、人間には適応力というものもあるけれど、「自分の限界」というのも、知っておく必要があるな、というのが、教訓である。

 

外的にいろんなものが提供されても、「自分はこれでいい」と思うのは、必ずしも後退的ではなく、「受容」という大きな意味を逆にもっているのではないかと思う。やっぱり、「汝自身を知れ」というのは生涯の命題かも。