みくまの

桜が折からの強い風に吹かれて散っている。八重の桜。それを眺めながら午後は読書に充てた。こんなにゆっくり本を読むなんて久々である。いろいろ考えさせられることがあった。

 

本は三島由紀夫の全集のなかで、短篇や中篇を集めたもの。近所の図書館で借りて来たものだ。

 

数日前にきいたレクチャーでこの作品について聞くまでは、名前は知っているものの、読んだことがなかったのであった。

 

民俗学者、詩人、歌人である折口信夫をモデルとしているらしい、教授が、住み込みで家事万端を仕切っている寡婦の女性を連れて、熊野三山へ詣でる旅の話である。

 

実際に、折口家にはこのような女性がいたことは知っているが、作者(三島)は執拗なほど、「先生」が容姿において優れないこと、また、この女性も美しいというにはほど遠いことを強調している。皮肉っぽく描かれた折口教授の姿。碩学ではあっても、きわめつけの神経質で、「変人」としか思えない奇妙なひととして描かれている。

 

そして、歌の弟子でもある寡婦は、そうした先生を熱狂的なまでに崇拝しているが、それを描く筆にも、皮肉が籠っている。

 

どこまでも虚無的というか、寂寞とした印象がある作品だが、最後になって、実は「先生」がこの旅に寡婦の女性を誘ったのは、かつて、熊野の故郷で親に結婚を反対されて一緒になることができなかった少女がいて、旅行すらかなわなかったわけなので、その女性が既に故人となった今、彼女の身代わりとして三つの櫛を三山に奉納することで、一緒の旅としたいと発願した背景があることが、寡婦に話される。

 

櫛を奉納といっても、それは神社に分からないように、慌ただしく、土に埋めて立ち去るといったやりかたなのであった。

 

しかし、「先生」の告白を聴いた寡婦は、感動すると同時に、あまりにも美しいその恋物語を嘘くさく感じ、「醜い」先生がつくりあげた架空の物語なのではないかと疑い、それが確信に近くなったところで、作品は終わる。

 

最後に「肩すかし」をくらうところは、豊饒の海の「天人五衰」のあの感じとよく似ている。恋人の清顕のことを「そんなかたは最初からいらっしゃらなかったのでは」と答える、尼僧となった聡子の返事とともに描かれた、夏の庭のしらじらとした午後の虚無と相通じて。

 

全集のこの巻には、有名な「英霊の声」や「憂国」も入っているのだが、私はこの「三熊野詣」が単に民俗学批判(折口の戯画化)というだけではなく、全体を支配している「存在の希薄さ、こころもとなさ」のようなものは、何かに「取り憑かれた」結果なのではないかという感じがしてならない。

 

以前、「英霊の声」を読んだときも、そう感じて、「憑依説」が私なりの仮説になっている。

 

実際、三島自身も、「英霊…」については、夜にそういった声が聞こえるようになったということを語っているし、この中篇群についても、これら特別に退廃的な物語のいくつかは、何かが私に書かせたもので、ミーディアムというのは、取り憑いた神の顔を知らない、といった謎めいた解説をしている。

 

彼のこころを蝕んでいたのが何かはよく分からない。霊的な憑依現象とも考えられるが、もっと現実的には、あるシナリオによって、彼が操られていたのではということも考えられる。

 

私見だが、彼は本来、政治的な人間ではなかったと思う。ところが、文学座の分裂騒ぎで、「裏切り」に合い、親しい人々や文壇から遠ざかった。また、その前には、「鏡子の家」の不成功があった。失意の上に、親しい人々と疎遠になったところへ、政治的なひとびとがそっとすべりこんだ、とも考えられないだろうか。そうして、ある方向へと誘導された。もっと遡ると、若くして大流行作家になったことさえ、ある種の、演出が「誰か」によってされていたのかも…。若い日の、当時としては異例破格の世界旅行の提供とかも…。ノーベル賞への野心とその挫折すらも…。

 

実際、そういった仮説をどこかで読んだことがある。

 

まあ、そうかどうかは分からないけれど、孤独になった人間を「操作」するのは、わけないことである。孤独ということで、情報も遮断されているか、歪曲されているわけだから。

 

折口をモデルにした、小説中の藤宮先生の若き日の恋には、ひょっとして、三島自身の実らなかった恋が投影されているのかもしれない。三つの櫛を埋めたかったのは、実は三島自身だったのかも。

 

それはそうと、この小説ではじめて知ったのだが、那智の滝には、裏滝というのがあるのだそうだ。

 

「みくまの」はやはり不思議な、幽明境だ。