今年のさくらは

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今年の桜はとても不思議だ。開花宣言からずいぶん経って、ものすごい嵐や雨もあったにもかかわらず、まだかなり咲いている。なにしろ、たいへんな風で、ガラス戸がミシミシいう風は、ここへ来て初めて体験するものだった。

 

この団地のなかでも、落花で絨毯になっている並木道があるけれど、それでも、花が枝にしっかりついているのか、まだまだ見ごろである。「花も嵐も踏み越えて…」という歌を思い出す。なにかしら、芯の強さというものを感じさせる今年の桜。

 

嵐で落花していた枝を拾って、空きビンに挿してみた。静かに桜を眺めながら、こころ穏やかに過ごしたい。

 

いつの日か、「そういえば、あの年の桜は格別だった」と回想することになるのだろうか。

 

翁に、「この世の中」という題の、ごくごく短い詩がある。

 

「かぜに おとされる

あめに ながされる

どろに よごされる

あしに ふまれる

 

かわいい さくらのはな…」

 

 

今年の桜は、「かわいい」だけでなく、強い花だ。

何度もの嵐に耐えて可憐に咲いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

過去と未来

桜が咲いてから、強風の日が続き、今日は雨。それでも今年の桜は完全開花してないので、長くながらえている。

 

昨晩は、高齢の伯母の訃報の電話が親戚からあり、この電話がまだ使われていてよかった、などと言われた。携帯の番号を変えてから、一度だけ電話したことがあったので、古い履歴をたどったのかもしれない。

 

そのあと、こんな風に親族と連絡を絶っているのはよくない、とか、母親が亡くなったらその後の生活をどうするのか、もっと自分を大事にしなさいとかなんとか、親切なのかもしれないが、人生訓めいたものが続いた。私は年金と貯金の取り崩しで生活はしているが、母親とは別会計なのだが、同居していると思っているのだろう。

 

この親戚は、かつて家を借りるときに保証人を頼んだら、ハンコは銀行の金庫にあって、取りに行く暇がないとかぐずぐず言って断ったのであった。

 

お悔やみを述べながら、丁寧に対応はしたものの、「わかってないなあ」と思った。

 

本当の「友達」というのは、困ったときにさりげなく手を貸してくれる存在であるはず。

 

人間はひとりだけで生きていけないというのは本当だが、私は「選択」をしているのであって、絆がないわけではないのだと、反論した。(まあ、それは強気発言で、実際はそんなにはないが)

 

そうはいっても、身の振り方はずっと私を悩ましてきたことだったのは事実だ。来週からはかつての仕事仲間から少しずつ様子を聞いてみよう。

 

私がずっと逡巡していたのは、おともだちが帰ってくるのかどうなのかと期待していることがベースにあったのだけど、そうやって待たれても、かつて「期待しないでくれ」と言われたように、負担かもしれないし、自分としても無為の苦痛というのもあるし、見通しの立たない不安もある。

 

どうして、再度音信不通になってしまったのだろう…。 

 

 

 

the peak experience

今年の桜は開花が早かったけれど、寒さも続いたので、なかなか「爛漫」というほど、咲きこぼれる感にならない。今日も公園を1時間ぐらい散歩した。

 

変わり映えのしない日々をおくっているが、シリアの爆撃などを見ると、「変わり映えのしない」ことこそが、実はずいぶんと贅沢なことなのだと思う。

 

紛争(もう戦争といっていいと思うが)前のシリアの写真をみると、趣ある美しい歴史的な建物がたくさんあって、ビザンチンドーム型ではない、古い正教会の建物などが垣間見えたり、興趣をそそられるが、そんな教会も今はあるのかどうか。昔、草津翁に、米国からどんなイコンをお土産にもってきてほしいですか、と言われ、シリアのエフレムのイコンを所望したことが、そういえば、あった。

 

ときどき、世界がこんなに物騒になる前に、もっと旅行をしておけばよかったと思うことがある。サンクトペテルブルクもあんな有様であるし、私はスペイン、ポルトガルへは行ったことがない。イタリア絵画よりスペイン絵画の内省と静謐を好み、ブリューゲルやボスといった、怪奇な幻想趣味も好みの私にとって、プラド美術館に行っていないのは痛恨である。

 

 東欧も興味があったが、行ったことはなく、チェコへのご招待があったことがあったのだが、その頃も体調不良でかなわなかった。

 

学生時代に、先生が数人を引率して、アイルランドと英国に行く計画があって、当初メンバーだったのだが、それも病気で行けなかった。

 

振り返ってみると、自分の人生にはそんな「逸失機会」みたいなものが多いと感じる。

 

負け惜しみみたいだが、でも、日本にもいいところはたくさんあるし、ありふれた観光地であっても、そこで「感じること」や「見つけること」があれば、どこであるかということは実はそんなに重要なことではない。

 

そのときの気候や、陽光、風、匂い、その土地でないと感じられないもののいろいろがある。その彩りや記憶が人生を豊かにしてくれる。

 

その意味では、おともだちと旅行したのは、私の人生のハイライトだったかもしれない、と最近思う。2008年だから、震災前だし、今に比べればまだまだ世界は落ち着いていた。

 

至高体験」という言葉があるけれど、私はそのように、あの旅の一瞬に自分の人生のピークを感じたのである。振り返ってみれば、のことだが。

 

それは、二見が浦に着いて、宿に荷物をおろし、夫婦岩の神社に参拝し(修学旅行生たちがたくさんいた)、宿への帰途、海辺の土手のようなところをずっと一緒に歩いた時間である。

 

あれは午後3時過ぎぐらいだったのだろうか。海に沿った土手とはいえ、五月なので陽光はまぶしいものの、まだギラギラするほどではない優しさだった。どこまでも明るい海。緩い弧を描いて宿へ続く道。宿は旅館が並ぶ中で端に位置していた。

 

土手の、海と反対側には、松の木が生えていて、宿近くなって、その低い土手を降りて松のある草むらみたいなところに降りたが、その小さな草はらにも午後の明るい光が燦々と降り注いでいた。夕方にはまだ時間があるので、あたりはひっそりと静かである。この草はらに降りた記憶がとても鮮やかなのである。

 

この土手を歩いた時間ー多分3、40分ぐらいだろうと思うがーは私にとってなにか忘れがたいものをのこした。

 

それは記憶のなかで、「幸福」そのものとして、凍結しているような時間である。

 

私たちは特段何かを話しながら歩いたわけでもなかった。ただ、この時間を思い出すだけで、私はとても幸福な気持ちになる。

 

夜にはおともだちは、カシオペア星座の場所を教えてくれたりした。潮騒の音がずっと聞こえていた。

 

「貴重な時間」とはあとになって初めて見つけるものなのかもしれない、時間の淘汰を経て。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春雷

東京では桜は満開というけれど、家の周りも、日当たりのよいところは、満開どころか散り始めているものもあるが、だいたいまだ5分咲きといったところ。

 

でも、子供達の遊ぶ広場(通路なのだけど)や、あちこちに植えられている桜の霞のようなありさまは、平和そのもので、静かで、美しい。

 

そんな風景が、夕方、一転して、激しい雨風に襲われ、それに雷も加わった。「春雷」というのは風情のある言葉だと思うが、もうちょっと前、まだ寒い季節に雷が鳴るほうが普通で、桜の季節の雷というのはあまり聞かないが、桜と雷、というのも、またなかなか粋というか、よいものだと感じた。

 

激しい落雷が隣の駅あたりであったらしく、轟音がすごかったので、慌ててPCの電源を落としたりしたが、実際はもっと早く切らないと、雷被害の場合は間に合わないだろうと思う。

 

桜の樹の下で遊んでいた子供達も、突然の雷鳴と稲妻で、蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。これもまるで絵巻物の世界のようである。

 

桜も雷も、なんとなくこの世のものとは違う、異次元を感じさせるところがある。夕方の、慌ただしい「世俗の時間」が、自然が甦える「聖なる時間」にすりかわったようだった。

 

 

黒と白

冬に戻ったような寒い雨の日。昨晩から続いている。おかげで、桜は長くもちそうだ。来週いっぱいお花見ができるのではないか。

 

私の夢のなかでは、いろいろな色が象徴的に使われているようだが、いちばん分かりやすいのは、白と黒である。あと、赤、紫、ピンク、緑、青、水色などがあったりする。

白と黒以外はちょっと分かりにくいこともある。

 

もちろんだが、黒は「悪」として使われていて、夢自体は政治とはあまり関わりがないのだが、「黒」は政治的文脈でどうも使われていることが多いような気がする。

 

私はもともとは懐疑主義的であるので、ある時期、歴史修正主義的な見方に傾くこともあったし、たとえば、反ナチスはある種のコンスピラシー・セオリーであって、本当のところはどうだったんだろうと思う部分が皆無ではなかった。南京などについても同様である。

 

夢がすべて正しいわけではないし、私に夢を見させているものが何なのかはよくわからないが、しかし、あるときを境に、白黒がはっきりした。

 

それは昨年の夏だったか、戦前、なかでも、ちょうどヒトラーが台頭した頃、ドイツに派遣されていた、ある建築家ー今では忘れられているが、当時の少壮建築家ーの回想録を読んだ時である。

 

ヒトラーが首都ベルリンを大改造していたその頃、日本大使館も大幅に改築されることになり、日本庭園造営のための顧問役を任命されて渡欧した、この建築家の回想は、当時の生々しい世相をリアルに伝えていて、とても興味深いものであった。

 

欧州の数々の建築探訪や、美術館、劇場、音楽会など、当時の欧州の文化的レベルやその香り高さも伝わってくるもので、劇評なども、とてもおもしろい。

 

なかでも圧巻は、ミュンヘンでおこなわれたドイツ芸術祭に招待され、ごく間近で、ヒトラーが「タンホイザー」を聴く姿を見た描写である。

 

ヒトラーゲッペルスなどとともに、二階正面の貴賓席に座っているが、著者の席はそのごく近くなので、総統の表情がよく見えるわけである。二つに分けた頭髪の半分がパラリと顔にかかるのは、ニュース映像と同じだが、思いのほか、顔色が白いこと、しかし、そのしろじろとした顔面が、舞台へ向かって拍手をおくる際は、桜色に紅潮し、強い情熱的なもの、熱血といっていいものが身体のなかに満ちているのが表情から感じられ、それがドイツ人の心を惹きつけている魅力なのだろう、と分析している。

 

著者は、貴賓席のヒトラーを眺め、この人こそが緊迫している欧州政局に登場し、歴史を動かす主役であると感じ、貴賓席のあたりに、時代の潮流が渦を巻いているように感じた、と書いている。

 

ユダヤ系の音楽家の作品は一切演奏されず、演奏家についても同様というような当時のユダヤ弾圧の「厳しさ」を述べ、ある程度の批判、遺憾の意はあるものの、当時の同盟国日本出身であるから、この感想や観察はやむをえないと思うし、私は、むしろ「現実」を知るという意味で面白かったのだが。

 

あまりに描写が優れていて面白かったので、めったにしないことだが、アマゾンにレビューを書いた。あまり話題になっていなかったし、自分だけ読むのも惜しい…と思ったからだった。

 

その晩、夢を見た。ぼんやりとした中に、くっきりと、「黒い本」が浮かびあがった。

しばらく悩んで、レビューは取り下げた。

 

それ以降である。私が、ナチスや南京、その他について、歴史修正主義的な見方を一切とらなくなったのは。それほど、その映像は、黒々と「非」「否」をうたっていた。

 

たかが夢といえばそれまでだが…。インパクトがあった。

 

その他にも別の時、黒い旗をオリンピックなどのように、数人で持って行進するとか、そういう「黒い」例もあった。これはいわゆる「ファシスト」という意味だと思う。

 

右派も左派もそれなりに問題があるのではと思う自分には、受け入れにくい面もあるのだが、日本の場合は、戦前回帰的な、軍国主義的なものが、「黒」になるようだ。

 

では、共産主義革命はどうなのか、と思うが、そういうものはあまり出てきたことはない。

 

もうちょっと分かりやすいかたちで夢を見させてくれれば、と思うのだが、それは夢の夢たるゆえんかもしれない。

 

 

 

 

桜二分咲き

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週末はまた天気が崩れるというので、昨日は大公園に散歩に出かけた。木によっては、桜も2分咲きぐらいのがあるが、まだまだという感じだが、春休みということもあって、たくさんのひとがピクニックを楽しんでいた。子供達はもう半袖で走り回っていたりした。

 

 

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茶亭の庭をぐるりと回り、菜の花の花壇や椿のアーチなどを抜けて、あちこち歩きまわった。この季節は、木蓮や辛夷、連翹、水仙まで咲いていて、桜の季節への橋渡しをしているかのよう。

 

 

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雨降り続く

昨日から雨が続いている。ベランダに置いた、先日買ったゼラニウムの小さな鉢植えにも水遣りをしたいのだが、このお天気でちょっとためらっている。

 

このあいだ、デイヴィッド・ロックフェラーが亡くなったというニュースが流れたが、

今上天皇訪米のときに、自邸に招かれたことまでは知らなかった。

 

昭和天皇が75年に訪米したときは、やはりロックフェラー家に招かれ、歓待を受けた

ことは知っていたけれど。

 

あと2年で、引退する天皇は「上皇」となり、御所も現在の東宮御所と交換して、引っ越し、新たに仙洞御所として住まうことになると報道されていた。

 

以前、このブログでも、松本重治翁のお通夜でロックフェラー氏と遭遇したことを書いたけれど、http://amethyst.hatenablog.com/entry/2015/08/31/212837

すいぶん前のことだが、それでも、こんなに年寄りになっているかなと思い、調べてみたら、私の遭遇したひとは、ジェイ・ロックフェラーだったようだ。

 

松本重治は在野にあって、日米関係に尽力した、歴史的な人物だが、日米関係は日中関係といったようなことをいつも言っていた。彼は近衛文麿と親しかったから、昭和天皇のことをどう思っていたのだろうか。

 

彼は聖公会の臨終洗礼を受けて、パウロの霊名をもらった。

 

ロックフェラー死去のニュースを聞いて、教会の夕刻の暗さと、長身のロ氏の影、霊名のパウロのことを、ふと思い出した。異邦とのつきあいに生涯をついやした翁にはふさわしい霊名かもしれない。もう30年前のことだ。