THE HEART OF CHOPIN

今日までがまだしも暖かい日。明日から寒波が戻るという。

 

隣の駅に買い物に行って、いつもと反対側の出口の商店街へ行った。こちらの本屋のほうが品揃えが多く、売れ筋ばかり置いているいつもの本屋とはちょっと違っていた。

 

何気なく棚を見ていたら、「ショパンの心臓」という本が目に入った。「あ、ワルシャワの聖十字架教会にあるあれか」と見てみたら、ミステリーのようだ。パラパラ見たら、ショパンの心臓は、遺骸を帰国させると民族運動に力を持つという理由で帰国を許されず、心臓のみを密かにパリから持ち出したそうで、ショパンの姉がドレスの下に隠したりして運んだという逸話があるようだ。

 

階下の猫おばさまが、老人の手習いでピアノの練習をしているのに刺激されて、昨日はこちらへ来てから一度も開けていなかった電子ピアノを開けて練習し、譜面の整理などをした。それをラックに投げ込んでおいたのだが、ショパンが表に出ていて、通るたびに「CHOPIN」が目に入っていたのだった。

 

そんな時にショパンに関する本に出会うのも不思議だが、そんなことは最近よくある。

 

さて、そのあと、立ち読みした佐藤愛子の本が面白かったので買って読んだ。

 

この90歳の「烈女」作家はあまり読んだことはないのだが、一本筋の通った性格を好ましくずっと思っていたことと、彼女が北海道の浦河に建てた別荘での超常現象が世の中でも有名で、そのときにその地の除霊というか慰霊に貢献した霊能者がのちにマスコミの寵児になった。

 

その別荘の怪異現象のことは以前何かで読んだことがあって、ポルターガイストとか、

勝手に動くファクスとか、誰もいないのに電気がついたりとか「こんなこともあるんだなあ」と思っていたが、今回読んだエッセイに簡単に触れてあったが、その土地はアイヌに対する残虐非道な行為(虐殺、強姦など)がおこなわれた土地だったこと、また、佐藤氏の一族がアイヌと浅からぬ因縁があったことが起因しているらしい。そういう土地の由来を知らずに、土地を買ってしまったわけだが、売った方は由来を知らないわけでもないと思うのだが。

 

こうした一連の霊体験を通じて、佐藤氏は体は滅びても魂は残ること、死ぬ際の意識のありようの大切さなどを感得するにいたったという。

 

翻って、おともだちのおとうさんのことだが、たしか、8月の14日に亡くなったと聞いた。時間はわからないが、私はその夕方、急に頻脈になり心臓が苦しくなり、クスリを飲んで1、2時間寝ついたのだったが、時々不整脈はあっても、それはだいたいストレスだとか、過重な労働をしたとかの明確な理由があるのだが、そのときは、まさに、突然因果関係なく襲われたのだった。

 

お盆だし、病院は休みのところが多いし、焦ったが、手持ちのクスリでなんとかことなきを得たが大変だった。

 

のちに、おともだちから、おとうさんが亡くなったことと日付を聞き、その日のことを思い出し、何か腑に落ちるものがあった。

 

また、去年の秋だったか、闇のなかで黒いスケルトンがじっと私を見つめているイメージが浮かんだ。怖かったが、やがてそれは黒い紙に描かれたもので、風が吹いて紙を巻き上げ、どこかへ飛び去った。こちらの方は私の「怖れ」が生み出したものかもしれないが、そうとも言えないリアルなものでもあった。

 

それ以来、そういうものは全く見ない。

 

おともだちは、12月の電話で毎日泣いていると言っていて、私もこころが痛んだ。が、伏せていたけれど、こんな話も、あったわけだった。

 

 

 

猫談義

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また寒さが戻ってきた。昨日は猫が原の樹木の剪定に業者さんが入って、大々的に枝をはらったので、原っぱは、なんだかスカスカである。チェーンソーの音が一日中鳴っていた。

 

一昨日の午後、ふと思いついて、階下のやはり一人暮らしのおばさまのところを訪問した。この人とは「寒いですね」と会ったときに立ち話をするぐらいだったが、昨秋、急に猫達がいなくなったときに、さりげなく猫の話題をふってみて、さらに、自分がこっそり餌をやっていて、お宅の迷惑になったのではないかと話してみたら、なんと「実はウチにも一匹いるんです」という驚きの話で、よかったら猫談義でもと言われていたのだった。

 

お菓子を持って、初めて訪問したKさん宅の猫は、少し和猫ではない血がまざっているらしく、とても足が長く、おとなしい猫だった。ソファの上に置いたサークルのようなところに入って鎮座していたのだが、しばらくすると、隣の私の膝の上に乗ってきて歩いたりした。

 

猫達が姿を消して、今は別のグループが来ているのだが、そのなかにいかにも凶悪な顔の黒猫がいて、Kさんも私もやっぱり「人相」ならぬ「猫相」はあるのだということで、意見の一致をみた。

 

胸が白い、灰色の猫が時々来るのだが、これがとてもこの黒猫を恐れていて、いつも周りを見回しているのである。この灰色猫はオス猫だと思っていたのだが、Kさんによると、メスなのだそうである。メス猫はある程度になったら、体が大きくならないとか。骨格でわかるらしい。

 

Kさん宅のニャンコは前の猫が、Kさんのご主人が病死したあとひと月で亡くなり、どうにも寂しくてたまらず、シェルターでもらってきたのだそうだ。実はそのシェルターに行ったとき、とても綺麗な猫が何匹かいたのだという。そこに、小さくてショボクレて、育つだろうかというような猫がちょろちょろしていたのだが、それが突然Kさんの膝にトンと乗ってしまったのだという。

 

そうされると、「縁」のようなものを感じ、育つかなあと不安もあったけれど、その猫をもらうことにしたのだそうだ。それが今ではあまり病気もしない元気な猫になったとか。

 

私たちが猫の一代記を話しているとき、猫はじっと耳を傾けているみたいだった。

Kさん曰く、とてもひとのこころがわかる猫なのだそうである。

 

私も、犬より猫のほうが人間のこころを読めるような、繊細な能力がある気がする。また、ある種のシックスセンスも猫は割合強く持っていると感じる。

 

Kさんの話では、ここではペット飼育禁止だが、かなりたくさんのひとが実は猫を飼っているそうである。

 

1時間ばかり、お茶をいただきながら猫談義したのだが、そばに猫がいる時間は、なにかいつもと違う時間が流れている。野生とか、こころ、とか、なんなのだろう。時間の密度が濃くなるような何かが。

 

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水と夢(節分)

明日は立春、今日は節分、豆まきの日。「節分」というだけあり、天地の流れも大きく変わる「節目」。

 

12月に、おともだちと長い電話をしたが、その時風邪とか予防注射のためあまり体調がよさそうではなかったので気になっていたが、様子を知る手段もないような状況ということもあったのだが、ついに意を決して昨晩電話してみたのだが、留守番電話になっていた。あちらは朝だし、仕方がないかと思ったのだが…。

 

そうして眠ったのだが、なかなか寝付けず、明け方、夢を見た。砂漠に咲いているひとむらの花があるのだが、それが消えてゆく。

 

また、しばらくして、ベランダにある猫のお皿に水が入っていない(実際はベランダにそういうものはないのだけど)ことに気がついて目がさめた。

 

このところ、水に関する夢をよく見る。

 

「ああ」と思って反省した。

 

私は、どんな内容でこのブログを書けばいいかで頭を悩ましていたのだけど、それが

おともだちのこころに届いていなかったのだな、私がおともだちを大切に思っていることはわかりきったことだと思っていたのだけれど、そんなことはなくて、その気持ちが「注がれて」いなかったのだ、と感じた。

 

「これからどうすれば」とか「ああしよう」「こうしよう」とばかり考えている自分に、夢が気づかせてくれたようだった。

 

 

大人の時間

今日から2月。暖かかったのに、2月の声を聞くと急にまた、寒くなった。

 

このところまた、「ダウントン・アビー」に嵌まっている。現在テレビでシーズン5の終わりぐらいを放映中なのだが、いつもあっという間に時間が経ってしまい、次の週まで待ちきれない。

 

テレビは、とくに、日本のドラマはまったくと言っていいほど見ないのだが、それはなぜかというと、ダウントンにあるような、人間ドラマの面白さ、人間関係の機微を職人技的なうまさで飽きることなく見せるような、「大人の」ドラマがないからだ。

 

つくりかたは職人技、well-madeなのだが、人間模様を俯瞰するには、透徹した視線と、ある種の知性が要求される。さらに、会話のやりとりが素晴らしい。皮肉だったり、同情だったり、はたまた、うんと婉曲な「見えない戦争」みたいなものであったり。

 

ラニー・ヴァイオレットや、料理長のミセス・パットモアの「警句」はあちらこちらで取り上げられているが、本当にうならされるものが多い。

http://downtonabbeyonline.com/countess-dowager-violet-grantham-quotes/

http://downtonabbeyonline.com/mrs-patmore-quotes/

 

このシリーズがつくられるきっかけになった映画「ゴスフォードパーク」も見たことがあるけれど、これほど面白くなかった。貴族やその召使いたちの珍しい生態ぐらいの印象しかなかった。

 

それを、単なる「物珍しさ」だけではない、人間ドラマにまで持っていったことが、

成功の秘密だったのだろう。また、このシリーズの「厚み」は、人間ドラマがお家芸の英文学の伝統を滋養にしていると感じる。そうした土壌がなければ生まれない、人間観察の面白さ。

 

翻って日本を見ると、こうした大人の鑑賞に耐えるような作品がテレビにも映画にもまったくと言っていいほどない。

 

最近私は映画に対するパッションをすっかり失ってしまい、昨年見たのも、「シン・ゴジラ」ぐらいしかない。大変な評判なのでどういうものか見てみたのだが、今の日本の文化を象徴するような、「オタク的」「蛸壺的」な、内輪受けや楽屋落ち満載で、文化や土壌を共有するひとにしかわからない、閉塞したつまらないものだった。

 

日本の若いひとたち、いや、中年とかもそうなのだけど、カラオケでも、アニメソングでたいそう盛り上がるのだが、それぞれ細かく年代の特徴があるらしく、同じ層に属することがたいそうな仲間意識を生む。そういう現象に前々からとても違和感があったのだが、「ゴジラ」への熱狂はそういったアニメソングの帰属意識ととても似ていると感じた。

 

若者だけをもてはやしたり、若者の価値観にひたすら迎合しているような文化は、やがて滅びてしまうのではないだろうか。

 

 

テレビをつけると、日本のテレビなのに、ニュースにトランプ大統領が出ない日はない。朝も昼も夜も、ワシントンから中継だ。

 

特派員がレポートするのだが、背景がいつも、その時間のホワイトハウスとその周辺なので、夕暮れどきや、朝焼けのポトマック川(かな?)やオベリスクが見えて、その独特の美しさに感動する。いつも思うのだが、ホワイトハウスに向かって右手に見える、古めかしい欧州のホテルみたいに見える建物、一部だけしか見えないのだが、あれはなんなのだろう。なぜか気になる。

 

トランプ大統領が矢継ぎ早に出す大統領令のために、今朝も世界のあちこちで中東系のひとびとが、米国行きの飛行機に搭乗を拒否されたり、空港で拘束されたりというニュースが続々はいってくる。グーグルが海外に現在出ている外国籍の社員に緊急帰国するように指示したというニュースもあったが、大変な混乱だ。

 

仕事が早いということはいいことなのだけど、こんなに大鉈をふるっているのは、まるでドラマチックな演出の映画を見ているようだ。

 

大統領になったら、職責からいって慎重にならざるをえないだろう、などと思っていたのは、甘い見方だった。

 

世界は劇画風になってきてしまった。ただし、大嵐のあと、良いものが生まれるかもしれない。変化に嵐はつきものだから。 

 

 

 

人と人のあいだ

今年一番の寒さかもしれない今日。寒さがこたえた日だった。たいして何もしていないけれど、家のなかをある程度気持ちよく保っておくには、結構毎日いろいろすることがある。そのほか、人間のあいだのエネルギーの授受に関する本を二冊ほど読んで、なるほどと思うことが結構あった。

 

人間関係は、givingとreceivingがバランスがとれていないと、健全な関係を保つのが難しいということ。考えてみれば当然のことだが。それと、相手を責めるとか追及するというやりかたではなく、「自分の気持ちを正直に話す」ことが、やはり関係を保つには重要であるということとなど。

 

こういうことは心理学でいう、バウンダリーの概念に当てはまるが、スピリチュアリズムのエネルギーフィールド的な考え方からしても、自分のエネルギーフィールドをしっかり保っていることが重要であることがわかった。

 

あらゆる人間関係、また、職場、学校などでこれらは言えることなのだろうと思う。

そういう考え方が浸透していれば、いわゆる「ハラスメント」や「アビューズ」は起こりにくくなるはずだが、私たちは幼時から、「人には親切に」といった道徳律や宗教的な愛の概念を刷り込まれすぎて、身を守る文化がむしろ根付いていない面があると思う。

 

とはいえ、人と人との関係は、当人同士が利害関係や依存関係で納得をしていれば、

バランスが悪くても続いていくものだ。クリントン夫妻がその例だ。

 

大統領就任式での、ビル・クリントン元大統領を見て、胸をつかれた。アルツハイマーの疑いは前から聞いていたが、30分ほどの待ち時間のあいだ、誰と話すわけでもなく、うつろな表情で、時折、ひとりだけで唇を動かしているのを見て、往時からはあまりに変わった姿に、驚いたのだった。

 

振り返ってみれば、この元大統領の醜聞は、ずいぶんなものだったと思う。新大統領のあれこれが言われているが、クリントン氏の場合は、場所がホワイトハウスといういわば聖域の職場であり、相手はインターンという、本来自らが保護しなければならない対象であった。偽証罪云々と言うより先に、倫理的にも酷い話だった。

 

抜け殻のようになった、ビル・クリントンを見ながら、人の世の栄枯盛衰を感じた。

わざわざ深夜に中継を見る価値は、新大統領のスピーチなどより、ここにあったかもしれない。