就任式

陽射しが暖かい午後。風が強くて、猫が原のわずかな枯葉が渦のように吹き上げられている。

 

昨晩は、大統領就任式のテレビ中継を見るために一旦早めに就寝。午前1時に起きた。

これまでの就任式に、こんな風に真夜中に中継するなんていうことはなかったと思う。

よくも悪くも関心が高いということだと思う。

 

出席者が会場に入ってくるところからずっとうつしているので、議事堂の内部や、式次第が細かくわかり、その点はとても興味深かった。メラニア夫人が入場するときは、儀仗兵?みたいなひとに腕を預けて入場などというのも、プロトコルではこうなっているのか…と、おもしろかった。

 

が、日本のテレビは各局ともまったくつや消しで、せっかく真夜中に起きて見ているというのに、また、「中継」と銘打ちながら、トランプ氏の宣誓と演説以外のところは、スタジオトークやワシントンの街の様子などに切り替えてしまって、残念だった。日本の視聴者の関心外だと判断してだろうけれど。手を加えない中継に価値があると思うのだが。

 

祝砲を鳴らすシーンなどは、セレモニー的で、歴史映画のようで印象的だった。また、前大統領夫妻がヘリコプターで去るというやりかたも、初めて知り、興味深かった。

 

大統領就任演説も、歴史に残るような名スピーチとかでは決してないが、逆に言えば、スピーチライターの書いたような凝った文章でなく、「自分の言葉」で語っていることは好感を持った。福祉の対象になるのではなく、雇用を生み出して、仕事をすることで経済を上向きにするというのもまさに正論である。日本人のように、生活保護を受けるのを「恥」とする文化も極端だが、アメリカではフードスタンプに甘んじる層が少なからずあるのも事実。

 

一方で、ワシントンなどでは、たくさんの元政府関係者や銀行家などがコンサルタントロビイストとして、優雅な生活を送っている反面、リーマンショック以来、たくさんの人々が食うや食わずの暮らしを送らざるをえなくなっており、歴史の振り子が「小さな政府」の方にふれるのは、むしろ自然の流れだと感じる。

 

 オバマ夫妻がヘリコプターで去る映像を見ながら、私が渡米したのが2008年、ちょうどオバマ氏が大統領に選ばれたときだったから、いろいろなアップダウンや流浪?のあった8年というのが、彼の任期にちょうど重なっていたことになり、ある種の感慨があった。ひとつの時代が終わった、というような。

 

私の醒めた判断では、トランプ政権は金融資本主義に対峙するもので、歴史の揺り戻しなのだろうと思っているが、私の夢は、それを「ナチス」と予告しているのであった。

時として、無意識の夢のほうが、昼間の意識より多くを知っていることもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Sweet Caroline

寒いことは寒いが、体がもう慣れてきているのか、寒さをあまり感じなくなった。陽射しはいっぱいで、冬の日は低いからか眩しくて仕方がなく、サングラスが手放せない。

 

今朝は、Bran de Beautyと名付けられた十勝小麦のブランでつくったホットケーキミックスでパンケーキを焼いて食べた。これはベーキングパウダーもアルミフリーのものを使った、健康によい優れもの。芽室町でつくっているものだ。

 

牛乳は四つ葉を使った。近所のスーパーにも「北海道牛乳」というのを売っているのだが、一定以上原乳が使われていれば「北海道」をいう名称が使えるらしく、隣の駅のデパートでは「四つ葉」が買えるので、出たついでに購入してきた。バターも四つ葉。

今朝はそんなわけで、オールとかちブランドの朝食となった。

 

さて、トランプが大統領に選出されて以来、トランプの動静が日本でもニュースにならない日はない。これまで大統領就任式に日本人がさほど関心があったわけではなかったが、今回は違う。

 

将来が予測しにくい「トランプゲーム」のように見えてきて、「スペードの女王」ではないが、コートカードたちがにんまり笑っているみたいだ。

 

オバマケアがどうなるのかもいろいろ言われているが、単に低所得者対象だと思っていたメディケイドだが、一定の年齢以下の障害者なども含んでいることを知った。草津翁も渡米してからはメディケイドを使っていたと聞いた。

 

東日本大震災の翌年だったか、ドナルド・キーンが日本に帰化して、永住のためやってきて、結構ニュースになった。コロンビア大学を退官したことがきっかけだと思うが、当時、まだ震災やら放射能問題やらで日本全体が落ち着かないなかで、敢えて日本やその文化への愛情のための帰化ということで、話題になっていたが、一説には、キーン先生にとって、日本の国民皆保険制度が魅力だったのだとも言われていた。

 

芸能人などが金に糸目をつけず特殊なガン治療などをする例外を除いて、治療費が一定の額を超えると、高額医療費が払い戻される仕組みもある。私は以前、職場にいた保険会社出身者に、この制度があるから、実は医療保険は無駄な出費である、という本音を聞いたことがある。

 

トランプの言うことのある部分は、「温室効果ガス」捏造説みたいに、支持できるところもあるが、ロシアも絡んだ非難の応酬は、国際政治もここまで下品な中傷合戦になってしまったかとため息が出てしまう。

 

ただ、基地問題をはじめとして、日本にあふれる嫌米ムードはやっかいな面もあり、

そういった層がロシアやプーチン評価に傾いているのは、「収容所列島」などを知らない若い層も多くなっているからではないかと思い、危惧している。

 

たとえばプーチンの娘たちなどひとつとっても、ひとりはいわゆるオリガルヒの息子を夫にしていたりするようだが、詳しいことは知られていない。もちろんプライヴァシーがあるから守るべきことは前提だが、それにしても、アメリカ大統領の家族がオープンにされているのとは、まったく異なる秘密主義のベールに覆われている。

 

そんな政権交代でかしましいなか、ケネディ大使の任期が終わった。その挨拶動画を見て、「そういえば、JFKはWW2で魚雷の艇長として日本と戦ったのだった。そんな話を昔、伝記物語で読んだなあ」と思い出した。

 

私が子供の頃には、JFKはスーパーヒーローで、私が読んでいた「少女フレンド」でも、キャロラインの日常を紹介する「キャロリン日記」という人気連載があったぐらいだ。

 

その後、情報社会がすすんで、スキャンダル的な、JFKの影の部分を皆が知るようになり、当時のような英雄視はなくなってしまったが、とはいえ、ケネディ大使のスピーチから、理想や英雄が語られていた昔を懐かしく思い出した。

 


ケネディ大使から日本の皆さんへ御礼のメッセージ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大雪

今日は今年最高の冷え込みで、地面には霜柱がおりていた。なぜか、今年はこの「冷え込み」が気にならない。「寒さ」になにか記憶があるような気がして、ふと思ったのは、北国で暮らした2年間で「酷寒」が体のデータファイルに書きこまれたのかもしれない、と。

 

この夏もそうだったのだが、今回もひどい歯痛だったが、ようやく少しおさまってきて、ほっとしている。

 

今朝もいつもながら、奇妙な疲れる夢をたくさん見て、5時ごろ起きてしまい、それを書き付けて、また眠った。

 

そんな中途覚醒の明け方にふと、「あ、昨日はコンスタンチンの命日だったんだ、忘れていた」と、気がついた。

 

主の割礼祭と大聖バシレイオスの記憶日。毎年新年になると思い出していたのだが、今年は忘れてしまっていた。今年はSt.Hermanのカレンダーも持っていないから、なおさらだ。

 

これを書いていたら、気象警報が携帯メールに届いた。草津町の大雪警報だった。今年一番の寒波に東京は無傷だが、北関東を直撃しているらしい。ここでは申し訳ないぐらい、太陽が燦々と照っている。

 

あの「小屋」も懐かしいが、いずれは風雪で消えゆく運命だったのだろうなあと思う。

一度冬に一人で行った記憶がある。もちろん日帰りだが、翁は「噂になる」と騒いでみせた。愉快な翁だった。

 

私には洋服の記憶がいつも鮮明なのだが、そのときは、アメジストというかラヴェンダー色のタートルセーターに、焦げ茶と白のチェックのスカートを着ていたことを思い出す。

 

猫たちも代々たくさんいたのだろうと思う。何十年も住んでいたわけだから。

 

これを書きながらテレビをつけたら、なんと大雪のニュースで草津町がうつった。

積雪は75センチだそうだ。街は白一色だった。

 

 

 

 

2017年

今日も暖かい日だった。昨晩などは暑くて目が覚めて暖房を切ったほど。昨日は成人式だったので、最寄りの駅でも振袖姿のグループを見かけたりした。

 

まずは平和な一年の幕開けである。胡蝶蘭は順調に花芽を伸ばし、シクラメンも元気に咲いている。ラヴェンダーだけはひとつだけついている花がなかなか開かないのだけど、去年も2月ぐらいが最盛期だったから、もう少し見守ろうと思う。

 

アメリカの新大統領就任を前に、相変わらずの、良くも悪くも「トランプ旋風」が吹き荒れて、なにかとお騒がせである。

 

ふと、最近はすっかりご無沙汰していたドリーン・バーチューが、今年のyear readingをどう出しているのだろうと思って見てみたが、年初めには、ウィークリーと並んでイヤーのも日本語版がアップされるのだが、なぜかイヤーだけががなく去年のものがあがっている。それで、英語版を探して見てみた。

 

https://www.youtube.com/watch?v=y4AtHLwWmks

 

私が最近あまりドリーンのリーディングを視聴しなくなったのは、良いこともいっているけれど、いつもあんまりポジティブで、なんだかフワフワしていて、これでいいのかなあと思ったからだった。ただ、暗い気分になったときは、「そういう見方もできるなあ」と、upliftingな気持ちになるので、そういうメリットはあった。

 

今年のリーディングはこれまでと全然異なって、まず、ドリーン自身がかなり動揺しているようで驚いた。このひとは、これまでこんなにためらいがちにもごもご話すことはあまりなかったのだが。

 

今の世界情勢からいって、そういうことはあるかもしれないが、martial lawという言葉が出たときにはびっくりした。いわゆるclairvoyanceがこんなことを言うのか、という思いである。しかも、彼女はこういう具体的な事象をこれまで挙げたことがなかった。

また、4月については戦争のことも語っている。子供が守られている、というカードで、「戦争」のニュアンスを読むのは、さすが、clairvoyanceだと思った。このへんにとてもリアリティを感じる。

 

もしこれが現実になれば困ったことではあるが、しかし、そこはいつもの彼女らしく、

祈りの力、どんな状況にあってもこころの中に平安を保つことを強調していることは、

解決策というか、私たちの側の対応として、適切なことだと思う。

 

ふと、正教会の祈りのなかで、「衆人に平安」という言葉が何度も何度も繰り返されることを思う。

 

長いあいだ、戦後の平和な世界に生きてきた私たちにとって、この祈りの言葉は、内的な平安しかイメージできないものになっているが、振り返れば、過酷な歴史の時代のほうが人間世界では長かったわけだから、「ピース」というのは、文字どおり、物理的な平和(=戦争のない状態)でもあっただろうと思う。

 

これも予測可能なことだが、自然災害についても触れている。

 

このあいだ、おともだちが電話で私に「いくつになった?」と聞いて、ちょっとぎょっとしたのだった。

 

なぜなら、何なのかわからないが、あるとき、65という数字を夢で知った。無意味な数字とは思えないから、自分の歳かな、と思った。

 

おともだちは、なぜそんなことを聞いたのだろうと思う。

 

いずれにしても、今年は正念場、なのかもしれない。それと、ドリーンが言うまでもないが、最近のメディアのコントロールぶりは本当に異常なものになっているので、

メディアからある程度距離を置くことは、賢い選択だと思う。それと、政治的な騒乱に「巻き込まれない」こと。このあたりは、クレバーなサジェスチョンをしていると感じた。

 

つい最近、渡米の際に必要なESTAに、使用しているSNSを申告しなくてはならなくなったことなどもちょっと驚きだった。そのリストにさすがにミクシィのようなローカルなものは入っていなことがちょっと笑えたが。 

降誕祭

三連休(私は関係ないけど)のはじまりは、本格的な寒さが戻ってきた。とはいえ、今年は、寒かったり暖かかったり、アップダウンが激しくて、風をひいているひとが多い。

 

今日は旧暦の降誕祭。行かないつもりだったが、ふと、主教奉事だから、今からいっても間に合うに違いないと思って出かけたのだが、主教奉事ではなかったらしく、到着したらもう終わりの鐘が鳴っていた。まったく初めて聞く鐘の鳴らし方で、オルゴール風にメロディーラインがあるような印象のもので、祭りによって、違ったものがあるのだろうかとか、不思議に思った。

 

参祷者は外国人が8割がたで、日本人には旧暦降誕祭は定着していないのだろう。午後1時からは、一般に公開されている聖堂参観の時間になるので、すぐに啓蒙所のところにロープが張られ、聖堂奉仕のひとびとが慌ただしく行き交い、あまりfeastという余韻がないのが残念だった。

 

売店は外人達でごったがえしていて、仕方がないので、前から時々行っている「地鶏屋」へ行って、親子丼のお昼を食べた。

 

ここはちょうど旧N学院の建物の真向かいのビルの二階で、たまたま以前入って、カウンター席からちょうど教会の建物とドームがドーンと見えて、とても見晴らしがよいことが気にいって、御茶ノ水ではいつもここに行くことにしている。夕方からは日本酒と地鶏料理という感じになるらしい。夜はまだ行ったことがないが、居酒屋としては眺めは出色だろうと思う。土日は休みのはずだが、どうして今日は営業していたのだろう?

 

それから丸善に回ったが、いつからそうなったのかは知らないが、丸善の本屋の隣には、同じく丸善の文房具売り場があったが、そこが空きスペースになっていて、これからクリニックになるらしい。

 

先日銀座に行ったときも、教文館の一階の一部がブランドショップになっていた。

どこも本屋は商売にならないのだろう。本そのものが売れない上に、アマゾンなどで買うひとが多いからだ。私はなるべく近所の本屋で取り寄せをしてでも買うようにしているけれど。その本屋も一度潰れかかったが、なんとか持ち直した。

 

久々の御茶ノ水界隈は、学生街だからやはり活気があって、うららかな日差しとともに、若さがあふれていた。街ゆくひとも、まだお正月気分が抜けない、のんびりムード。

 

今日はドアのお飾りをはずさないと。1月は出初式やら成人式やらで、なにかと慌ただしい日が続き、2月になればもう梅が咲く。今年はそういえば、11月に雪が降って以来、東京では雪の日はまだない。

 

 

名の日の祝い

2017年が始まった。お正月といってもとりたてて何かあるわけでもない私は、通常モードに戻った今日がとても嬉しい。

 

テレビは毎年同じような画面で、去年の画像を流しても、それと分からないだろうぐらいの、Uターンラッシュや、証券市場の始動、混み合っている神社などの風景をうつしている。

 

皆、家の近くの神社に参拝するのだろうが、今日のような仕事はじめには、また、職場の近くの神社へも参拝するようで、神田明神などの混み合う光景がうつされた。商売繁盛と書かれた、巨大な熊手を担いだサラリーマンなどがいて、驚いた。高価なものだと思う。

 

 私は、今年は、何事に対しても批判することをすこし手控えようと考えた。

 

今の日本にしても、世界にしても、おかしなことが多すぎて、言いたいことはたくさんあるが、それを批判したり、なんとかしようとすると、一向に変わらない政治や社会に対して大きなストレスを抱くようになり、心身を消耗させがちだからである。

 

コヘレトが、善人が報いを受けるわけでも、また、悪人が裁かれるわけでもない、みたいなことを言っていたと思うが、あれは現実の社会をよく捉えていたのだなあ、と、最近はつくづく思う。「だから、若い日にはうんと楽しめ」というようなことが続いていたと思う。

 

そういえば、すっかり忘れていて、ふと思い出した。今日は私の聖名祭りの日だった。アナスタシア聖人の小さなイコンがあるのだが、それと視線があって、急に思い出したのだった。